{1933年(昭和8年11月) 第1回全日本学生ヨット選手権大会}

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{1933年(昭和8年11月) 第1回全日本学生ヨット選手権大会}
{1933年(昭和8年9月) 第1回 全日本ヨット選手権大会}
日本ヨット協会が初めて{全日本ヨット選手権大会}を東京品川沖で開催した。
競技種目は {A級ディンギー} と国内クラブが使用していた2枚帆スループ{国
内5メートル級}で争われた。 {A級ディンギー} は同志社の吉本善多氏、 (国
内5メートル級}は三田ヨットクラブの{初風号} が優勝した。
{1933年(昭和8年11月) 第1回全日本学生ヨット選手権大会}
1933年の{第7回明治神宮体育大会}に初めて{ヨット競技}が加えられた。
{A級ディンギー} の国内建造が進み、全国大学ヨット部の活動が盛んになって
来たところから、 {神宮大会} のひとつとして {第1 回
全日本学生ヨット選手
権大会} (全日本インカレ) が 東京品川沖で開催された。
大きな数字のみ)
(セールマークは
慶応大学、同志社、大阪帝大、九州帝大、東京帝大、名古
屋医大、早稲田大学、関東学院が参加、 慶応大学の平松栄―氏組が優勝。
{1936年(昭和11年8月) }
日本は初めて、戦前のドイツ・キールの{オリピック・ヨット競技〕に出場した。
スター級
(11 位/12艇) {慶応大学
財部氏}
オリンピア/ヨレ(22位/25艇) {早稲田大学 藤村氏}
{1937年(昭和12年6月) 関東学生ヨット連盟(関東学連)の発足
{A級ディンギー} による関東インカレ出場の度応、早稲田、東大、関東学院、商船
学校の5校が集まり、{関東学生ヨット連盟} を発足させた。
それに続いて、法政(昭和12年)、 日大(昭和13年)、 東京水産(昭和13年)、
明治(昭和18年) が学連に入り、関東インカレに参加した。
戦後になって立教(昭和22年) 、中央(昭和24年) が インカレに参加した。
1940年 (昭和15年)
横浜新山下町に オリンピック・ヨット・ハーバーが完成した。
第12回 オリンピック東京大会の中止が決定した。
1944年(昭和19年)
太平洋戦争の為 すべてのヨットレースが中止になった。
戦後のA級ディンギー
{1945年(昭和20年8月) 太平洋戦争終戦、 米軍の進駐}
{*多数のA級ディンギーがブルドーザーで海に捨てられた}
8月、終戦になり米軍の進駐力が始まり、 オリンピック・ヨットハーバーを含む横浜
山下町一帯が 進駐軍に接収された。
米軍のカマボコ兵舎群建設用地確保の為、 ヨットハーバーに集納されていた
各大学の多数の{A級ディンギー} がブルドーザーでかき集められ、海に捨て
られるのを当時関東学院ヨット部2年生だった私はなすすべもなく茫然と見て
いた。
1946年(昭和21年9月)
戦後の厳しい混乱時期にもかかわらず、{日本ヨット協会}の動きは速かった。
終戦の翌年9月には琵琶湖にA級ディンギーを集め、柳が崎で{東西学連対
抗}が行われた。
1946年
{第1回
(昭和21年11月)
国民体育大会 ヨット競技}が琵琶湖で開催された。柳が崎沖に琵
琶湖大型観光船を浮かべて選手/役員が乗り、その周りでレースが行われた。
多数の観客も大型観光船に乗船して極めて盛況であった。
(この大会はA級ディンギー全日本選手権を兼ね、早稲田OB堀江喜三氏が優勝)
*終戦直後、まだ東京/横浜が焼野原の時代であり、琵琶湖のレースの帰りに、焼けてい
ない京都の街並が嬉しくて、鳥丸通を上り下り足が痛くなるまで歩いた記憶が懐かしい。
博多湾奈多浜で(昭和17年6月)第10回全日本インカレが開催されて以後、戦
争のため中断されていたが、(第11回は昭和21年第1回国民体育大会)1947年
(昭和22年8月)戦後初めて九州博多湾名島において、第12回全日本インカレ
がA級ディンギー、12校が集まり開催された。
【優勝:慶応大学、第2位:東京大学、第3位:立教大学】
1948年(昭和23年8月)
横浜山下町貯木場沖 第13回全日本インカレ A級ディンギー12校。
【優勝:関西学院、第2位:慶応大学、第3位:京都大学】
以上
国民体育大会 ヨット競技の始まり
1946年(昭和21年11月)
{第1回 国民体育大会・ヨット競技〕
滋賀県 琵琶湖 開催
琵琶湖に大型観光船を浮かべて、選手/役員が乗り、その周りでレースが行われ
た。(A級ディンギー全日本選手権を兼ね、早稲田OB 堀江喜三氏が優勝した)
1947年(昭和22年)
{第2回
国民体育大会・ヨット競技〕
石川県七尾湾で開催
(国体料金 ¥250/日で選手/役員が和倉温泉加賀屋に宿泊)
1948年(昭和23年)
〔第3回
国民体育大会}
九州博多湾志賀島
1949年 (昭和24年)
〔第4回
国民体育大会}
横浜オリンピックハーバー
1950年(昭和25年)
{第5回 国民体育大会}
愛知県 半田
1951年(昭和26年)
{第6回 国民体育大会}
広島県 宮島
1952年(昭和27年)
{第7回 国民体育大会}
1953年 (昭和28年)
宮城県 松島
香川県 高松
{第8回 国民体育大会}
1954年(昭和29年)
{第9回
1955年(昭和30年)
{第10回
北海道 小樽
国民体育大会}
神奈川県 葉山
国民体育大会}
1961年(昭和36年)
宮城県 七ヶ浜
{第16回 国民体育大会}
参加種目の中から一般女子のA級ディンギーがスナイプに変更、高校対抗のA級ディンギー
がフィン級に変更。
1967年(昭和42年)
岡山県 玉野渋川
{第17回 国民体育大会}
全ての国体ヨット種目からA級ディンギーが消えた。
{1972年(昭和47年) A級ディンギーの休眠が始まった}
オリンピックに、470が採用されることが決定、1933年(昭和8年)からインターカレッジで活躍した。
A級ディンギーは、長い休眠に入ることになった。
最初で最後の? 天覧ヨットレース(思い出話)
{第 10 回 国民体育大会 夏季大会 神奈川県大会}が 昭和30年9月22日~26日 ボート
競技が 相模湖、 水泳競技が 鎌倉、 ヨット競技が 葉山で開催され、
天皇陛下(昭和天皇) 皇后陛下 宮殿下のご臨席があった。
第 10 回 国体ヨット競技は 葉山鐙摺港で開催され、 各種目 4日間 4レース、
使用艇は抽選により決定、
実業団府県対抗
A級ディンギー
(1 人乗り
実業団府県対抗
スナイプ級
(2人乗り)
一般男子府県対抗
A級ディンギー
(1 人乗り)
一般女子府県対抗
A級ディンギー
(2 人乗り)
高校府県対抗
A級ディンギー
(2 人乗り)
高校府県対抗
スナイプ級
(2 人乗り)
第 10 回 国体ヨット競技で 思いも寄らぬ {サプライズ}があった。
予め予定されていたことと思うが、 警備の問題か、国体のプログラムのどこにも
{天皇陛下}ご臨席のことは書かれておらず、 誰にも知らされていなかった。
ところが 9月23日 突然 {天皇陛下}がヨット競技にご臨席賜り、葉山鐙摺の木造ヨットハウ
スの2階のベランダにお立ちの天皇陛下に、ヨット競技役員約80名、選手団監督約60名選手
(レース中は除き)300人が集まり、 (早稲田高校OB?と記憶)の音頭で{天皇陛下万歳}を
三唱した。
その後、天皇陛下は海上保安庁の巡視艇の後部甲板に設けられた御座所で、国体ヨット競技
会長、(日本ヨット協会会長) 関谷健哉先生、帆走委員長・小澤吉太郎氏のご説明により、 ヨ
ットレースを親しく観戦された。 私どもは巡視艇の近くを走りながら レース艇の上から拝見し
ていた。
想い出話①
{A 級ディンギー オール乗り}
ある二月会の二次会、A 級爺様達の昔話で、
{A 級ディンギーのオール乗り}が酒の肴にな
り、記録に残せということになりました。
{A 級ディンギーのオール乗り}
戦後暫くして、オリンピア・ヨレなどの外国の一人乗りレースに対抗するため、{A 級ディ
ンギー}がひとり乗りになった時代がある。私は体重が軽く、強風でのバランスが難しか
ったのでオール乗りを始めた。
{A 級ディンギーのオール乗りをする為の準備は}
1)当時の A 級ディンギーのオールは欅材でオール乗りが出来るくらい長かった。平たい
水かき部がそれぞれオールの反対側になるようにして、2本のオールを1本に纏めて
結んで、スオートの上に置く。
2)オールに乗っても届くように、ティラーロープを2メートルぐらい長くする。
{A 級ディンギーのオール乗りの仕方}
結んだオールを{サイドベンチ}の下角に突っ込む。シートと、ティラーロープを締めな
がら、オールの平たい水かき部に体を乗せながら、両足をフェンダーに乗せて走らせる。
オール乗りで走らせる場合、シートの締め過ぎは禁物、シートを緩めに艇を立てて走らせ
るようにする。
{A 級ディンギーのオール乗りで難しいのはタッキング}
タックの場合、先ず、腰を前にずらしながら、ティラーロープを緩めてやると艇が風上に
立つ、そこでガンターを入れ替える。風上側のオールを抜いて反対側のサイドベンチの下
に突っ込む、シートとティラーロープを締めながら、オールの先端に乗りながら、両足を
フェンダーに乗せて走らせる。慣れるとリズム的にトントンと乗り換えられるが、狂うと
艇が止まってしまう。
私は第 10 回葉山国体・一般府県対抗 A 級ディンギー一人乗り・東京代表、4レース、3日
間強風、オール乗りで優勝したが、3日間もオールに乗っていたため、お尻の皮が剥け、
こらえながら走った痛さを今でも覚えている。
想い出話②
イタリアディンギーセーラー達が驚いた
第 17 回
A 級全日本 牛窓大会(飛沫会のおもてなし)
日本 A 級ディンギー協会は、2006 年から全日本 A 級選手権大会の{英文報告書}と{ビデ
オ}を国際 12 フィートディンギー協会、イタリアディンギー協会、オランダディンギー協
会に贈っていた。
2007 年第 17 回全日本 A 級選手権大会牛窓大会の{ビデオ}が、イタリアで大評判になっ
た。イタリアディンギー協会は、イタリア各地の 12 フィート・ディンギークラブの{ビデ
オリスト}を編集しているが、その中に{SHIBUKIKAI}の名前で{ビデオ}が登録され、
すでに数百回の閲覧が記録されていた。
イタリアの前夜祭と言えば、葡萄酒、ハム、ダンスぐらいの簡単なもの、彼らが{ビデオ}
の{飛沫会のおもてなし}を見て驚いたのも無理はない。
{飛沫会のおもてなし}は
まず、{子供たちの朝鮮踊り}から始まり、
{フラダンス}{日本舞踊}
{軽音楽}{ジャズバ
ンド}と続き、婦人会の白い割烹着を着た大勢の婦人たちの盛りだくさんの料理姿、大き
なテント下の大勢のセーラー達へごちそうを配って回る白い割烹着の婦人達の献身的サー
ビス姿等々。
後日、イタリアディンギー協会理事長 Mr. Renzo Santini より感謝とともに、トルコで開催
された Cockshott 杯記念ヨットレースの前夜祭に、
{SHIBUKIKAI}のビデオが上映され
たとメールがあった。
文責
JADA 名誉顧問 白幡 寛

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