【二〇一四年度 駒沢史学会大会・総会報告】

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【二〇一四年度 駒沢史学会大会・総会報告】
◆記念講演
:
奈良大学学長 千田嘉博 氏
~) ロマン(正門横)
城跡から考える歴史 ◆懇親会(
学と両国から吾妻橋の史跡を巡見する秋の見学会が開催されたこ
月一六日に「隅田川散策」というテーマで、江戸東京博物館の見
八三号・第八四号の刊行、(2)会務では、大会及び総会の開催、
次に前年度決算報告と会計監査報告がなされ、了承された。そ
ののち、本年度活動計画として、(1)編集では『駒沢史学』第
会(発表者六名)が開催されたことが報告された。
と、また二〇一四年三月八日には歴史学科と共催で卒業論文発表
佐々木優 氏
に刊行されたことが報告された。次いで、(2)会務では、一一
最初に、前年度活動報告がなされた。(1)編集では、『駒沢史
学』第八一号が二〇一三年一二月に、第八二号が二〇一四年三月
まず、議長に中村陽平氏が選出され、議事が進められた。
◆総会
各発表および講演演者の方には心よりお礼申し上げる。
りかたについて、論じていただいた。
記念講演では、奈良大学の千田嘉博先生をお招きし、最新の発
掘調査成果をふまえて、戦国期における城の展開と権力生成のあ
が行われた。
大会においては、古代史一本、中世史一本、近世史一本、近代
史二本、西洋史一本、東洋史・考古学一本、合計七本の研究発表
00
【二〇一四年度 駒沢史学会大会・総会報告】 本年の二〇一四(平成二五)年度大会・総会が左記の要領で開
催された。
古谷紋子 氏
会期 二〇一四年七月五日(土) 午前九時一〇分より
総会 午後一時より
◆研究発表
橘奈良麻呂と橘氏
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大庭裕介 氏
岡村龍男 氏
長瀬光仁 氏
上杉謙信上洛の意義と憲政越後入部時期に関する再検討
─謙信願文にみる正当性の記述を中心に─
地域における郷士の存在認識と親類大名家
─駿河国安部郡井川の郷士海野家と
武蔵国岡部藩安部家の関係─
明治零年代における博覧会・博物館
─所管の変遷とその性質の変化を中心に─
内閣期司法省職掌形成の萌芽 佐藤大樹 氏
後期スチュアート朝イングランドにおける軍隊と社会
津久井尚悟 氏
東アジアの中の貨泉 85
そして秋の見学会の実施、卒業論文発表会の開催が提案され、了
そこで、橘奈良麻呂の変に関する研究史を整理し、事件の概要
をたどることにする。そして、橘奈良麻呂の処罰について考察し
つまり、橘奈良麻呂の処罰は、史料に明確な記述がないことに
より、獄死と判断されているのである。
たい。
る石川名足・淡海三船らの意見の不統一により、表向きは紛失し
字元年紀もその過程で紛失したとある。坂元太郎は、編纂者であ
橘奈良麻呂の変は、『続日本紀』巻二十、天平宝治元年紀に記
述がある。この歴史書は複雑な編纂過程をたどっており、天平宝
二〇一四年度新任の役員は、角道亮介(評議委員)、角道亮介・
佐藤大樹・長瀬光仁(委員)である。 橘奈良麻呂と橘氏
たという説を唱えている。
この点について、橘奈良麻呂をはじめとする関係者の罪が許さ
れた時期と、『続日本紀」編纂の時期とが合致し、興味深いとこ
ろである。
本報告は、橘奈良麻呂の変の検討を通じ、橘奈良麻呂について
考察するものである。
上杉謙信上洛の意義と憲政越後入部時期に関する
再検討
──謙信願文にみる正当性の記述を中心に──
六十七」とあり、橘奈良麻呂が六十七歳まで生存したことを記す
二十二(一五五三)年と永禄二(一五五九)年である。この二度
上杉謙信(当時は長尾景虎。本報告では「上杉謙信」と統一す
る。) は、 そ の 生 涯 の う ち に 二 度 の 上 洛 を 行 な っ て い る。 天 文
長瀬 光仁 史料もある。
橘奈良麻呂の動静について、史料がまったくないわけではない。
た と え ば、『 異 本 公 卿 補 任 』 は「 事 に 坐 し て の ち、 卒 す る 年
れたと考える論者もいる。
獄死したと解説する場合が多い。その一方で、獄死ではなく匿わ
ところで、首謀者である橘奈良麻呂は、「辞屈而服」したとあり、
その後の動静についてはわからない。そのために関係者と同様に
きな政変であったかが分かるものである。
死したとある。そのほかに縁坐者が四百人以上もおり、以下に大
であったが未遂に終り、関係者六人が拷掠窮問題のすえに杖下に
橘奈良麻呂は、橘奈良麻呂の乱を起こした人物として知られる。
この変は、藤原仲麻呂の殺害や孝謙天皇の廃立などを狙った計画
古谷 紋子 【二〇一四年度 駒沢史学会大会発表要旨】 なお、大会の当日配布された発表資料は以下の通りである。
承された。また、本年度の予算案が提案され、了承された。
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駒沢史学83号(2014)