バッタ塚伝説

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バッタ塚伝説
追補京極町史
第1編 開基 100 年まで
第2章 開拓の歩み
第1節 本町開村の日時
バッタ塚伝説
川西のバッタ塚について京極村史に阿部長之助は、実際に自分の目で確かめ、そ
して発掘もしてみたと書いている。
阿部はその結果、「虻田アイヌと岩内アイヌの古戦場かも知れない、とにかく不思議
な存在」としている。
また既刊町史では、阿部の推測と別に云う「風倒木跡」説にもふれて、ともに根拠が
薄いので結論としては「未解決・疑問」と書いた。
しかし、開村以来バッタ塚として言い伝えられて来だのだから、何か文献資料が残っ
ているはずであると思い、さらに道立文書館で調査を重ねた。その結果、わが町字川
西のバッタ塚伝承は事実であることがわかった。それに至る経過その他は次のとおり
である。
(註) 次の引用文は筆者が昭和 60 年、京極中学校の郷土学習のために作成したもの
である。
『バッタ塚はほんとうだった
京極町の川西には昔からバッタ塚と伝えられてきた所があります。京極村史に阿部
長之助さんは次のように書いています。
「バッタ塚は京極から3キロ程へだてた字川西の一画にあり、伝説の起りは、いつの
事かわからないが、昔数億万のバッタが黒雲のように空を履って飛んできたのが、この
場所で全滅したものをかき集めて埋めたのがバッタ塚だと云われてきた。また一説に
は虻田方面から発生したバッタを洞爺方面から追い払いながら、ついに今の川西で全
滅させたものであるとも言われている。
私は明治 42 年に実地を調べた事があるが、この塚がはたしてバッタ塚であるかどう
か疑問に思った。当時未開の無人地に害虫のバッタ塚を、一つや二つでなくその数
幾百幾千にも及ぶものをだれがこしらえたか、非常に不思議に思った。塚の位置は国
道をはさんで羊蹄山の裾野から尻別川まで十数ヘクタールにわたり、その数も数千個
に達するくらいで、360cm 四方、高さ 90cm くらいの土盛りが、ほぼ4~5m毎に縦十数
列、横十数個が、きちんと見事に並んでいた…以下略」
明治 33 年京極農場に入った岡本又三さんも「虻田から京極農場へ来る途中、今の
川西で無数の塚を見て驚いたが、バッタ塚だと教えられた。と云っています。バッタ塚
と云う云い伝えはあるが、いつ、だれがこしらえたのか、はっきりしないので
「はたしてバック塚だろうか」
「塚が縦横に整然として、しかも広範囲にあるから、バッタ塚としては、あまりにもて
いねいすぎる」
「ひょっとすると、虻田のアイヌと岩内のアイヌが尻別川の鮭をめぐって、戦争した古
戦場か、あるいは安倍比羅夫の伝説に関係がある古戦場の戦死者を葬った墓で、荒
らされるのを恐れてバッタ塚としたのか」
さまざまな俗説が生まれ、なかには塚を掘りかえした人もありました。しかし掘っても
黒い土だけで何もなかったそうです。
阿部さんが村史を書いた昭和 30 年頃は菅原伝右衛門さんの所有地の一隅に、もう
木や草が生えた塚が1haほどにわたって残っていたそうです。
北海道の歴史を調べてみると、今の私達に想像もできないような事がたくさんありまし
た。バッタの大害もその一つです。
記録を見ると、明治 13 年十勝地方から突然発生したトノサマバッタの大群は、5年間
にわたって次々と十勝、日高、石狩、胆振方面の開拓地を襲いました。その様子を「十
勝閧拓史話」という本(荻原著)に、次のように書いてあります。
「燃けつくような真夏の青空が急に暗くなったので思わず仕事の手を休めて見上げ
ているうちに、ポタリ、ポタリと大粒の赤い物が降ってきました。見ると胴体が親指ほども
ある大きなバッタです。それがたちまち雪が降るように天地を覆い尽くしてしまいました。
幾万とも知れぬバッタが、まるで物凄い夕立のような羽音をたてて、野といわず、畑と
いわず、地上のあらゆる緑草を食いつぶしてしまいました。
畑の作物はもちろん、当時、馬の背が隠れるほど生い繁った帯広平原の草地が、た
ちまち荒涼たる焼野が原のようになりました。野外で食い物が無くなると、バッタは家の
中まで侵入して、ワラ・紙、はては着物まで食い荒しました。」
バッタが、いったん降りて地上の作物を食い尽くして去った後は「地上に生色なし」と
言うほどで、緑の畑地は忽ち褐色の土だけになってしまうのでした。そのすさまじさは、
宇宙から小さな怪獣の大軍が押し寄せて来るようなものだったのです。
開拓使の報告書には次のように書いてあります。
「当時の人々は、それが何であるか知らず、ぼうぜんとして手をつかねるだけで、至
る所に大惨害を残した」
人々は、最初のうちは、空き缶や金だらいなどをたたいて撃退しようとしましたが、鳥
や雀を追うようにはいかず、札幌では屯田兵が大砲の空砲を放ったとも伝えられて
います。明治 13 年と 14 年で収穫がゼロになった畑が 160ha もあり、開拓をあきらめて
逃げてしまう人も出始めました。
事の重大さに驚いた政府は、開拓使に厳しくバッタ駆除を命じました。開拓使も捨て
て置いたわけではありません。今のように殺虫剤も無かったので、あらゆる方法を試み
ました。当時のお金で 55 万円も駆除費を出して、トノサマバッタの成虫・幼虫・卵を買
い上げました。
初めバッタ退治の良い方法が判らなかった開拓使も、卵を生みつける場所を見つけ、
卵をいっしょに掘り起こした土を詰み上げ、固く踏みつけて空気を遮断すると良い事を
知りました。その土を積み上げた所を「バッタ塚」と呼びました。買い取った成虫や幼虫
も集めて塚にしました。バッタ塚とはバッタの墓だったのです。
さて、京極町川西のバッタ塚は本物かどうか証明する資料が見つかりませんでした。
明治十年代の京極はもとより、羊蹄山麓は無人でした。ろくな道も無い頃、洞爺方面
からバッタを追って来て、ここで全滅させたとは信じられません。また古戦場や古跡な
ら、それ相当の遺物も出そうなものです。何百もの土盛りが整然と残っていたのだから
自然に出来た物でなく、人為的な物と考えられます。いつ、だれが、何のために造っ
たものだろうか。
昭和 50 年に京極町史を書いた時、私は「もしバッタ塚なら必ず記録があるはずだ」と
思っていろいろ資料を探したが見当らないので、疑問としました。
昭和 59 年、念のために道庁の資料室(現在の道立文書館)へ行き、もう一度、明治
13 年から 18 年までの北海道バッタ被害報告書を調べました。
「明治 13 年、十勝に発生したトノサマバッタの大群は、二手に分かれ一群は勇払か
ら札幌方面に、他の一群は虻田方面に向かった」
という記事がありました。京極は胆振国虻田郡に入っているから何か関係があるかも知
れない。
そして、ようやく見つけたのは明治 17 年の報告書で、それには虻田郡で捕ったバッ
タの量、使った費用、働いた人数、賃金、日数などが記入してありました。その頃の虻
田郡は虻田村と弁辺村(今の豊浦町)でした。バッタを捕った場所の名は次のとおりで
す。
ホンベンベ、ホロナイ、レブンゲ、オフケシ、ポンノップ、テーウス
どれも京極に関係のない地名です。半ばあきらめて文書を返そうと思った時文書の裏
表紙に袋がついていて、中に図面が入っているのに気づきました。もしやと思って図
面を一枚一枚開いて見ました。それはバッタの発生地や採卵地を示す貴重な資料で
した。しかし、どれも十勝や日高のものばかりで胆振のものは出ません。そして最後の
一枚に羊蹄山や洞爺湖の描かれている胆振の図面を見つけました。思わず万歳と叫
びたいような感動でした。
しかし、その図面にメナという地名は見えない。だが落ち着いてよく見ると、羊蹄山と尻
別川の間の所に「テーウス]という地名とともに、バッタの卵を埋めた印がはっきりきり出
ていました。川西の元の地名は「下目名(しもめな)」でテーウスとは聞いた事がありま
せん。けれども図上のルーサン(今の留産)-羊蹄山-尻別川の位置から見て,この
テーウスが今の川西のバッタ塚の所であることは間違いないと思いました。
やはり川西のバッタ塚は本当だったのです。
この文書の本文には明治 17 年5月から9月まで、毎月の記録が出ていました。別記の
とおりです。
なぜ無人の羊蹄山麓の川西地区にバッタ塚をこしらえたのでしょうか。それは川西の
この土地がトノサマバッタの大産卵地になったのでしょうか。
バッタは卵を川の流域の砂礫地や、雑木・雑草のまばらに生えている乾燥地の原野で、
東南に面した傾斜地に産み、湿地帯には産卵しないと書物に書いてあります。川西は
羊蹄山の火山礫が流れ出る所で、ろくな木も育たず、カヤ・・ススキなどが上目名(今
の喜茂別町比羅岡)方面まで、ずっと続いている原野でした。しかも南に尻別川段丘
までゆるやかに傾斜しており、日当たり・水はけ良好、バッタの産卵地として最適の土
地でした。
札幌県ではバッタを捕殺するため、その土地の有力者を指揮者に任命しました。テ
ーウスには虻田村の石井昌義と岡島和太夫の二人でした。
十勝のバッタ塚は面積 100 坪に1ケ所と書いていますので、その計算をすると川西
には 1,500 くらいあった事になります。
バッタ塚は捕えた成虫や幼虫を埋めたものと、産卵地の土といっしょに卵を掘り取っ
て積み重ねて固めたものとがありますが、川西のバッタ塚は後者の方だったと思われ
ます。
川西のバッタ塚は、やはり本当だったのです。
バッタ塚は北海道内のあちこちにあったが、今ではほとんど消滅し、札幌市手稲区山
口には碑も建ててあり、昭和 41 年 11 月の北海道新聞には北海道教育委員会が十勝
の新得町でバッタ塚調査をした事が報道されていました。』
テーウスについて
テーウスは地名ではなく、テーは te「ここ」。ウスはus(ウシ)「そこに群在する」あるい
は「所」の意味だという。
その頃、バッタ塚を造ったその場所には具体的な地名がなかったのでこの場所、こ
の所という意味で図上に示したものでなかろうか。
資料名 明治 17 年札幌県治類典 蝗害報告 (文書番号 8761)
場所 虻田郡テーウス(シ) 世話人 岡島和太夫、石井昌義
月日
金額
延人夫 面積
捕獲量
5月 9~31 日 66 円 50 銭 190 人 2830 坪 9 斗 3 升 3 合
6月 1~15 日 83 円 30 銭 238 人 5535 坪 11 斗 3 升 8 合
6月 16~25 日 65 円 80 銭 188 人 4450 坪 11 斗6升1合
7月 1~15 日 159 円 95 銭 457 人 18930 坪 20 斗 1 升 0 合
7月 16~31 日 256 円 72 銭 733 人 87765 坪 58 斗 0 升 8 合
8月1~5日
17 円 50 銭
50 人 5600 坪 3 斗 1 升 0 合
大正7~8年頃のバッタ塚
以下は故日向新一の談話である。(既刊町史編集当時の聞き書き)
「大正7~8年の川西には、バッタ塚と呼ばれた土盛がまだたくさん残っていました。
その辺りは一面のカヤ原で所々にエンジュの樹が生えている荒地でした。バッタ塚は
尻別川まで続く高さ2~3メートル程の緩斜面に山側をくずして低い方へ上を盛り上げ
たような形でたくさん並んでありました。
墓地の所から喜茂別寄りは一体がカヤ原で、牧場になっている所もあり、その木柵
が上盛したバッタ塚にささっている所もありました。