Untitled - åé天æºå®®
Transcription
Untitled - åé天æºå®®
彬子女王殿下、御神前に「御花神饌」を奉献 3 北野天満宮社報 春号 vol.6 完成した京都学園大学新キャンパス 北野天満宮社報 春号 vol.6 4 竣工祭にて玉串奉奠される田辺理事長 5 北野天満宮社報 春号 vol.6 京都学園大学の新年参拝 略 歴 シニアフェロー︵二〇一三年十一月一日∼︶ 京都府立医科大学 臨床教授︵二〇一五年四月一日∼︶ 一般社団法人京都経済同友会 特別幹事︵二〇一三年四月∼︶ ︿その他主な公職﹀ ハーバード大学アジアセンター 京都学園大学 京都がくえん幼稚園 学校法人京都学園 理事長 医療法人知音会 中之島クリニック 最高顧問 医療法人あけぼの会 理事長 ︵大阪︶ 親友会ホールディングス株式会社 会長 医療法人 知音会 四条烏丸クリニック 最高顧問 株式会社メディカルバンク 会長兼社長 株式会社京都メディカルラボ 会長 財団法人薬師山病院 理事長 医療法人知音会 御池クリニック 最高顧問 株式会社京都メディカルクラブ 会長兼社長 医療法人親友会 島原病院 理事長 ︿氏 名﹀ 田辺 親男︵たなべ ちかお︶ ︿生年月日﹀ 一九四七年四月十九日 六十七歳 ︿最終学歴﹀ 一九七二年 京都府立医科大学 卒業 一九七二年∼七九年 京都府立医科大学附属病院 在籍 一九七九年 医学博士号 取得 ︿現 職﹀ 親友会グループ 会長 ︵京都︶ 神酒拝戴の儀 キャンパス前にて行われたテープカット 6 北野天満宮社報 春号 vol.6 一願成就の社と 平 成 三 十 九 年 に 斎 行 す る 千 百 二 十 五 年 半 萬 燈 千 百 二 十 五 年 半 萬 燈 祭 に 向 け た ﹁ 平 成 の 大 して受験生らの信 祭 に 向 け た 境 内 整 備 事 業 の 一 環 と す る 表 参 道 へ 改 修 ﹂ の 一 環 と し て 、 摂 社 地 主 神 社 の 仮 遷 座 仰 が 篤 い 牛 舎 は、 の 松 の 植 樹 が 昨 年 十 二 月 十 日 か ら 始 ま っ た。 約 祭 併 せ て 境 内 西 側 に 鎮 座 す る 摂 末 社 文 ( 子社・ 昨年秋、約四十年 五 十 本 の 松 を 植 樹 し、 往 時 の﹁ 北 野 の 松 原 ﹂ の 神 明 社 ・ 四 社 ・ 七 社 の ) 遷座祭を三月十五日 午後六時より斎行した。 ぶりに元の位置で 景観をよみがえらせる。 ある境内北西隅に 今では梅の名所と知られる当宮だが、﹁わが棲 一 昨 年 よ り 進 め て い る 境 内 西 広 場 の 整 備 事 遷座したが、その まんところは一夜にして千本の松の生ずると こ 業 で あ る 紅 梅 殿 の 移 築 に 伴 い 、 文 子 社 ・ 神 明 参道両側を彩る朱 ろ ﹂ と い う 菅 公 の ご 神 託 や 一 の 鳥 居 を く ぐ り、 社 ・ 四 社 ・ 七 社 は 場 所 を 移 す と と も に 、 社 の 塗りの鳥居が次々 す ぐ 右 側 の 影 向 松︵ よ う ご う の ま つ ︶ に は、 毎 修 繕 を 施 し て い た が 、 こ の ほ ど 修 繕 が 完 成 し 、 奉 納 さ れ、 昨 年 年 初 雪 の 際、 御 祭 神 が 降 臨 さ れ、 雪 見 の 歌 を 詠 仮 遷 座 を し 十二月二十一日午 ま れ る と い っ た 伝 説 も あ り、 古 来 か ら﹁ 北 野 の て い た 文 子 前十時半から本殿 松原﹂と呼ばれるほど松の緑豊かな所であった。 社 ・ 神 明 社 ・ において奉納奉告祭を斎行した。 江戸時代の絵図や明治から昭和にかけての写 四 社・七 社 の 真 に も そ の 面 影 は 残 っ て い る が、 近 年、 松 食 い 神 々 を 無 事 奉 告 祭 に は 鳥 居 の 奉 納 者 ら が 参 列、 祝 詞 奏 上 の 後、 奉 納 者 が 玉 串 を 奉 奠 し た。 祭 典 後、 奉 納 虫 の 被 害 が 年 々 ひ ど く な り、 現 在 で は 松 の 本 数 に も と の 社 は大幅に減っていた。 に遷座した。 者は牛舎に移動し、粛々とくぐり初めをした。 舎 は、 元 々、 こ の 位 置 に あ っ た が、 昭 和 牛 本 殿 で の 奉 告 祭 に 引 き 続 き、 午 後 二 時 か ら 楼 目 も 覚 め 四 十 九 年 に 南 西 隅 に 遷 座、 千 百 二 十 五 年 半 萬 燈 門前に植樹された最初の松の前で清祓が行 なわ る よ う な 美 祭︵ 平 成 三 十 九 年 斎 行 ︶ に 向 け て の 境 内 整 備 の れ た が、 多 数 の 報 道 陣 が 駆 け つ け、 そ の 模 様 を し さ を 取 り 一環として、昨年、元の場所への再遷座となった。 カメラに収めていた。 戻した四社 ︶の方向 や七社の連 北 野 天 満 宮 は、 平 安 京 の 乾︵ 北 西 隅 に位置しているところから都を守る乾天神とし 棟 社 に は 、連 て 呼 ば れ て き た 経 緯 が あ り、 牛 舎 の 場 所 は、 さ 日多くの崇 ら に 境 内 の 乾 の 場 所 と い う 神 聖 な 地 で あ り、 願 敬者が参詣 いごとが叶う一願成就所として受験生らの篤い している。 信仰を集めている。 鳥居を奉納されたのは次のみなさん。 平 澤 勇 亮、 平 澤 あ さ 尾、 木 俣 雄 太、 大 道 曻 三 郎、大道智己、北野天満宮神若会、空間創研、 柴田石材、樋口造園、建築研究協会、奥谷組、 橘重朗︵順不同・敬称略︶ 植樹祭 丹塗りもあざやかに ... 四社、七社 北野天満宮社報 春号 vol.6 7 百年かけて平安京に誕生した天神信仰 シリーズ﹁天神と日本のこころ﹂第二回 ﹁日本人と縄文の心﹂ │ 日本文化の中の文化的遺伝子 小林 達雄 古 今 東 西、 さ ま ざ ま な 文 化 の 盛 衰 が あ る。 そ れ ぞ れ は、 独 自 の 地 域 を 舞 台 と す る ド ラ マ だ。 そ る。 そ の 燃 料 の 薪 の 用 意 な ど も 加 え て、 い か に も 成 形 に 着 手 し、 十 分 に 乾 燥 さ せ て 焚 火 で 焼 き 上 げ 辿 れ る 中 近 東 メ ソ ポ タ ミ ア の 土 器 で さ え、 せ い ぜ の 古 さ を 示 し て い る。 土 器 登 場 の 経 緯 が 最 も よ く コ ゲ で 計 測 し た 年 代 は 一 万 五 千 年 前 に 遡 り、 抜 群 │ 國學院大學名誉教授 こ に 生 ま れ、 そ こ で 育 っ た 人 々 全 員 が 自 ら の 役 手 間 暇 か け て こ そ、 は じ め て 成 就 で き る も の で あ 作は、粘土の掘削に始まり、素地を拵え、ねかして、 県 大 平 山 元 遺 跡 出 土 の 最 古 級 の 土 器 に 附 着 し た オ 回 り を 演 じ る の で あ る が、 単 な る 人 間 集 団 だ け で い 九 千 年。 南 ア メ リ カ、 ア マ ゾ ン 川 流 域 の 貝 塚 で は 六 千 五 百 年 前 の 古 さ に と ど ま る こ と に 徴 す れ ば、 り、 遊 動 生 活 に お い て は 到 底 不 可 能 で あ る。 青 森 物、 動 物 な ど の 生 態 系 と の 関 縄文文化の他にさきがけの滑り出しはいかにも注 完 結 す る の で は な く、 そ の 土 地 の 地 理、 気 象、 植 係 で あ り、 仕 組 み で あ り、 そ 目に値する。 と こ ろ で、 縄 文 ム ラ の ソ ト に は ハ ラ が 広 が っ て い る。 ハ ラ に は、 自 然 的 秩 序 が 維 持 さ れ、 縄 文 人 の 方 法 で あ る。 は た ま た 土 地 柄、 風 土、 国 風︵ く に ぶ り ︶ として個性を発揮する。 の 食 料 庫 で あ り、 必 要 な 道 具 の 材 料 を 提 供 し て く 立 っ て い る。 こ れ に は、 日 本 で は、 酸 化 し た り、 バ ク テ リ ア に よ っ て 分 解 さ ど の よ う な 食 料 を 利 用 し て い た の か、 そ の 全 容 を 知 る こ と は で き な い。 そ の 殆 ど が 酸 性 土 壌 の 中 れる資材庫であった。 文化の履歴の冒頭に一万年以 れ た り し て、 そ の 姿 か た ち を と ど め て い な い か ら 日 本 文 化 の 個 性 は、 ほ か で も な い、 容 易 に は 較 べ る も 上続いた縄文時代の存在が密 で あ る。 辛 う じ て 炭 化 し た り、 水 気 の 多 い 包 含 層 の だ。 そ の 間 の 事 情 は、 な に 的なムラを営むようになった の遊動的な生活様式から定住 契 機 に 幕 を 上 げ た。 そ れ ま で 縄 文 文 化 は、 永 い 旧 石 器 時 代と一線を画した縄文革命を い る が、 縄 文 人 の 植 物 食 も 決 し て 負 け を と る も の 植 物 ﹄ に は、 キ ノ コ 類 抜 き で 四 五 〇 種 類 示 さ れ て ル な ど は 未 発 見 の ま ま で あ る。 白 井 光 太 郎﹃ 食 用 れ る、 ゼ ン マ イ、 ワ ラ ビ、 ヤ マ イ モ、 ウ ド、 ノ ビ 物 性 食 料 の 残 滓 を 数 え る が、 当 然 食 べ た と 推 定 さ 残 っ て い る に 過 ぎ な い の で あ る。 約 六 十 種 類 の 植 のとてないほどの独自性が際 接にかかわっている。 よりも土器の製作使用の開始 で は な か ろ う。 つ ま り、 多 種 多 様 な 利 用 を 特 徴 と のおかげで真空パックの効果が働いてごく一部が が よ く 物 語 っ て い る。 土 器 製 8 北野天満宮社報 春号 vol.6 種 多 様 な 食 料 資 源 の 開 発、 利 用 を 筆 者 小 林 は﹁ 縄 お い て も 共 通 し て 見 て と る こ と が で き る。 こ の 多 し、 こ の こ と は 貝 塚 出 土 の 魚 貝 類 や 動 物 遺 存 体 に し た 一 万 年 以 上 の 体 験 と は 全 く 無 縁 の ま ま に、 そ 作 戦 を 展 開 す る。 だ か ら 縄 文 人 が ハ ラ と 共 存 共 生 服 せ ん と す る の で あ る。 開 墾 し、 ノ ラ に 転 換 す る ろ ハ ラ を 否 定 す る ば か り か、 目 の 敵 に し て、 征 のこころにまで通じているかに見える。 も い う べ き 関 係 な の で あ る。 ま さ し く 現 代 の 俳 句 か ら さ ら に 一 歩 踏 み 込 ん だ、 自 然 と の 共 感 共 鳴 と き た 成 果 で あ る。 こ の 事 実 は、 自 然 と の 共 存 共 生 識 と な る の だ。 こ こ に 言 語、 こ と ば の 基 本 的 な 機 前 に よ っ て 記 憶 を 確 か な も の と し、 万 人 共 有 の 知 は﹁ 名 づ け ﹂ が 不 可 欠 で あ る。 そ れ ぞ れ が 持 つ 名 毒 不 明 な 種 類 を 区 別 す る 必 要 が あ る。 そ の た め に 髄 を 見 逃 す。 ま ず は、 可 食 物 を 特 定 し、 毒 物 や 食 食 い 意 地 が 強 く て、 手 当 た り 次 第 に 口 に 入 れ て いた効果がもたらす当然の帰結とみるようでは真 的 な 遺 伝 子 D N A と は 別 に、 い く つ か の 文 化 的 遺 つ な が っ た。 こ の 間、 縄 文 の 力 が 培 わ れ、 生 物 学 ることなく縄文文化が独自路線に終始した結果に の 道 を 歩 み 続 け た。 そ れ が、 同 時 代 の 大 勢 に 与 す な 潮 流 の 勢 い に 乗 る こ と な く、 自 然 と の 共 存 共 生 た の で あ る。 日 本 列 島 の 縄 文 文 化 は、 そ の 世 界 的 次 々 と そ の 周 辺 地 域 に 影 響 を 広 げ、 歴 史 を 先 導 し な 縄 文 語 の 生 成 を 促 し、 そ の 往 還 を 繰 り 返 し な が わ け 日 本 語 に は い く つ も の 顕 著 な 特 性 が あ る。 そ の 主 体 住 性 確 立 に 大 い に か か わ る も の で あ り、 大 一万年をはるかに超えた縄文論理空間における 自然との共存共生の歴史的経験は独自の縄文文化 然 と の 一 万 年 以 上 も の 共 存 共 生 だ。 縄 文 人 が、 縄 自 の 歴 史 を も つ か ら に ほ か な ら な い。 つ ま り、 自 な い。 そ れ は、 他 言 語 が 経 験 し な か っ た 日 本 語 独 ︵次号に続く︶ 文姿勢方針﹂と呼んで重視する。 能 が あ る。 さ ら に そ の 名 の 生 育 場 所、 旬 の 季 節 や 伝 子 が 生 み 出 さ れ、 縄 文 文 化 に 刷 り 込 ま れ た の で れ と は 対 照 に 自 然 を 征 服 す る 道 を 一 途 に 突 き 進 み、 調理法にまで知識が広がっていくのである。 ある。 こ う し て ム ラ を 取 り 巻 く ハ ラ は、 植 物 が 繁 茂 し、 文 化 的 遺 伝 子 と は、 こ と ば で あ る。 文 化 が こ と 動物が生育する空間として忽ち縄文人が操る名前 ば を 生 み、 こ と ば が 文 化、 縄 文 論 理 空 間 を 作 り 出 で 充 満 し、 そ れ ら の 名 前 が 構 成 す る 縄 文 人 の 論 理 す 相 互 作 用 を 通 じ て、 現 代 日 本 文 化 に 至 る の で あ ハ ラ に お け る 縄 文 論 理 空 間 を 構 成 す る 諸 々 は、 一 方 的 に 名 づ け ら れ た 受 動 的、 静 的 存 在 で は 決 し ら現代の日本文化と現代日本語の際立った特殊性 が働く空間へと止揚する。 て な く、 み な も の 言 う 草 木 で あ り 精 霊 を 宿 し て 活 を導いてきているのである。 る。 換 言 す れ ば、 縄 文 文 化 の 独 自 性 は、 個 性 豊 か 発に動き回って縄文人と関係を結ぶ。梅原猛︵﹃人 世 界 各 地 に は 六 千 以 上 の 言 語 が 知 ら れ て い る。 類 哲 学 序 説 ﹄︶ は、 そ こ に﹁ 草 木 国 土 悉 皆 成 仏 ﹂ そ れ ぞ れ に 共 通 性、 独 自 性 が 認 め ら れ る が、 と り る。 そ し て、 日 本 の 八 百 万 の 神 の 世 界、 神 道 的 心 の 一 つ が オ ノ マ ト ペ︵ 擬 音 語、 擬 声 語、 擬 態 語 ︶ を 観 る。 世 界 各 地 の 自 然 民 族 の ア ニ ミ ズ ム に 通 ず に重なってくる。 陸 側 に は 絶 え て み る こ と が な い。 大 陸 に お い て ど ま ら ず、 縄 文 人 を と り ま く、 草 木 み な も の 言 う の 豊 富 な 発 達 で、 決 し て 他 の 追 随 を 許 す も の で は は 縄 文 革 命 と 並 ん で、 新 石 器 革 命 農 = 業革命に よって定住的なムラを営む段階へと発展するので 森羅万象との関係においても言語活動を意識して 文日本語による仲間とのコミュニケーションにと あ る が、 ム ラ の ソ ト に は 肝 要 の ハ ラ が な い。 む し 北野天満宮社報 春号 vol.6 9 参加者全員と記念撮影 真剣な表情の子供たち ワークショップの様子 北野天満宮社報 春号 vol.6 10 雪に覆われた三光門 同七時半から摂社火之御子社神前において鑚 火祭を斎行、古式により浄火を鑽り出した。同 十時からは、浄火を篝火に移し、初詣参拝者へ の火縄授与が行われた。参拝者への授与は例年 梅風講社員によって行われているが、今年は翔 鸞消防分団員四十人も奉仕に加わった。 新年最初の神事歳旦祭は、元日午前七時から 宮 司 以 下 神 職 に よ っ て 本 殿 で 厳 か に 斎 行 さ れ、 世界平和・国家隆盛・皇室と氏子崇敬者の弥栄 を祈願した。 本殿前の中庭は、連日、神前に祈りをささげ る初詣参拝者で身動きが取れないほどの混雑と なった。授与所は、勧学のお守りやお札・絵馬 などを授かる人の行列ができ、牛舎や絵馬掛け 所では絵馬に志望校を書き、祈願する若者らで ごった返した。 北野天満宮社報 春号 vol.6 11 平成二十七年、未年の新年を迎えた。京都市内で六十一年ぶりの 大雪を記録するというハプニングもあったが、﹁よい年でありますよ うに﹂﹁学力が向上しますように﹂﹁志望校へ合格しますように﹂ ̶ などなど、様々な願いを込めて神前に祈る初詣参拝者で連日賑わった。 京都市内の雪は、元日の午後と、二日夜から降り、三日未明の積 雪は二十一センチとなり、一時社殿がすっぽりと雪に覆われる事態 となった。京都地方気象台によると、京都市内で二十センチ以上の 積雪は六十一年ぶりの記録という。 激しい降雪の時は、さすがに参拝者の数は鈍ったものの、雪がや むと参道は人の波が続き、いつもながらの初詣風景となった。 新春を迎える神事は、十二月三十一日午後四時からの本殿前での 年越しの大祓で始まった。約四百人の参拝者が参列し、神職ととも に大祓詞を奉唱し、この一年間に身についた罪や穢れを祓った。同 七時からは本殿において除夜祭を斎行、一年間の無事に感謝し、新 年がよりよい年であるように祈願した。 雪の降る中、初詣参拝者でにぎわう御本殿前 雪化粧の境内 火縄授与の奉仕をする翔鸞消防分団員 池坊京都支部︵中路 喜久子支部長︶による 昨年の初天神で約六十年ぶりに復活した招福の梅 の枝﹁思いのまま﹂の授与が、今年は元旦から始まり、 新春奉納献華展が元旦 から一月二日まで神楽 初詣参拝者の人気を呼んだ。 殿で開催された。 ﹁思いのまま﹂は、神域にある約五十種・約千五百 恒例の献華展で、立 本 の 梅 を 開 花 前 に 剪 定 し た 枝 に、 菅 公 を 偲 ぶ 梅 花 祭 花・生花・自由花の形 で神前に供える特殊神饌の調製に用いる厄除け玄米 で生けられた六点の新 の 入 っ た ひ ょ う た ん を 取 り つ け、 厄 除 け・ 諸 願 成 就 春の香漂う作品に、初 などの願いを込めている。 詣参拝者が次々立ち止 か ね て か ら﹁ 剪 定 さ れ た 御 神 木 の 梅 の 枝 を 授 与 し て ほ し い ﹂ と の 崇 敬 者 か ら の 声 が 高 く、 千 五 十 まり、見入っていた。 年 大 萬 燈 祭︵ 昭 和 二十七年︶の年の 初天神に授与した 記録が見つかった ことから昨年の初 天神で約六十年ぶ り に 復 活 さ せ た。 結果は一時間足ら ずで予定数が出払 うという人気とな り、﹁来年はもっと 早くから授与して ほしい﹂という声 を う け、 今 年 は 元 旦からの授与に踏 み切った。 恒例の新春奉納狂言 が一月三日午後一時か ら神楽殿で行われた。 猿楽会と茂山良暢氏 によるもので﹁末広か り﹂ ﹁清水﹂ ﹁棒縛﹂ ﹁福 之神﹂など六番が奉納 された。時折小雪の舞 う寒さだったにも関わ らず、多くの初詣参拝 者が見入っていた。 楼門の内側左右に今年も西陣つくりもの人形﹁糸人 形﹂が元旦から五日まで展示された。 昨年のNHKの大河ドラマに想を得た﹁黒田官兵衛 と光﹂がテーマ。向かって右側は官兵衛とその妻光の 仲睦まじい姿を、また左側には馬上凛々しい官兵の姿 を帯地や絹糸など を使った糸人形と して創出した。西 陣織工業組合の依 頼で毛利ゆき子西 陣和装学院学長の 監 督・ 指 導 の 下、 毛利氏と有志によ る制作。 新 春 恒 例 の﹁ そ ろ ば ん は じ き 初め﹂が一月五日午前十時から 絵馬所で小学生らおよそ四百人 が参加して行われた。 全 員 が 本 殿 に 昇 殿 参 拝 し、 そ ろばんの腕の上達を祈願した後、 絵馬所に移動して長さ五・五メー トル、四百桁もある超大型のジャ ンボそろばんなどを使ってはじ き初めをした。 12 北野天満宮社報 春号 vol.6 優れた書家でもあった 御祭神菅原道真公をしの び一月二日午前九時か ら本殿で筆始祭を斎行し、 書に親しむ人たちの技術 の向上を祈願するととも に こ の 日 か ら﹁ 天 満 書 ﹂ を始めることを奉告した。 奉納された全作品の展示が一月二十三日から三十一 日 ま で 本 殿 前 西 廻 廊 と 絵 馬 所 で あ り、 書 家 の 山 本 悠 雲・岡本藍石・竹内 勢雲・日比野実の四 氏と橘宮司によっ て行われた。 ﹁正月﹂ ﹁ ひ つ じ ﹂﹁ 合 格 ﹂ ﹁躍進﹂ ﹁万歳﹂など、 子供たちが願いを 込めて書いた作品 を審査員が一点一 点入念に審査し、神 神 前 書 き 初 め﹁ 天 満 書 ﹂ が 一 月 二 日 か ら 四 日 ま 前の部四百五点、家 で 絵 馬 所 で 行 わ れ、 寒 さ の 中、 書 の 上 達 を 願 う 初 庭 の 部 五 百 四 十 点、 詣 の 幼 稚 園 児・ 小 中 学 生 ら が 力 強 い 筆 さ ば き で 書 計九百四十五点の き初めをし、作品を奉納した。 入選作を決めた。 古 く よ り 当 宮 の 神 前 書 き 初 め を﹁ 天 満 書 ﹂ と 呼 んでおり、今では正月の恒例行事となっている。 三 日 間 で 千 三 百 六 十 点︵ 幼 児 八 十 九 点、 小 学 生 五 百 九 十 六 点 、 中 入選者の授賞式は、天満宮賞など特別賞に輝いた子 学 生 二 百 三 十 七 点 、 供とその家族が参列し一月三十一日午後三時から本殿 高 校 生 八 十 三 点 、 で行われた。 一 般 三 百 五 十 五 授賞式に先立って奉告祭が斎行され、参列した子供 の代表が玉串を捧げ、それに合わせて全員が拝礼、書 点︶の作品が奉納 道の上達を祈願した。 された。 こ の 後、 授 賞 式 に 移 ま た、 こ の 期 間 中、 り、 橘 宮 司 が﹁ み な さ 家庭で書かれた作 ん、 受 賞 お め で と う ご 品 一 六 〇 一 点︵ 幼 ざ い ま す。 こ れ を 励 み 児 二 百 十 九 点、 小 学 生 九 百 六 十 三 点、 に 天 神 さ ま の 加 護 を 受 け、勉強にスポーツに、 中学生二百三十三 点 、 高 校 生 七 十 点 、 一層頑張ってください﹂ と 挨 拶。 一 人 ず つ 賞 状 一般百十六点︶も と記念品を手渡した。 奉納された。 入選者は次のみなさん。 ︻神前の部︼ ▽天満宮賞 岡本和眞︵柊野保育園年少︶、亀井都愛︵楽只小一年︶、 森田裕生︵田原本東小二年︶、中瀬蒼彩︵桂坂小三年︶、山畠祐希︵養 父市立伊佐小四年︶、藤井姫流︵大宮小五年︶、上田璃梨香︵鷹峯小 六年︶、中西なつみ 京 ( 都産大附属中一年 、須 ) 堯歩美︵二条中二年︶、 宮崎佐知子︵京都教育大附属京都小中学校三年︶ ▽京都新聞特別賞 千葉政宗︵早稲田実業学校六年︶ ▽京都新聞賞 伊藤玲︵浜松市立北小一年︶、別府さやか︵千里神 殿 小 二 年 ︶、 増 川 颯 風︵ 常 盤 野 小 三 年 ︶、 亀 井 心 寧︵ 楽 只 小 四 年 ︶、 古島寧々︵御所南小五年︶、井上京香︵大成中一年︶、川元ひなの︵東 輝中二年︶ ▽鳩居堂賞 尾西桃汰︵洛北幼稚園年長︶、東慶史郎︵大阪教育大 附属池田小一年︶、西村凌︵桂徳小二年︶、松木捺葉︵桂川小三年︶、 小嶌里奈︵上賀茂小四年︶、尾西風音︵元町小五年︶、桒名悠喜︵深 谷小六年︶、小野紬︵城南中一年︶ ▽金賞 山田愛也︵谷口書道教室・中一年︶始め百四十四人 ▽銀賞 滝本百花︵横浜市立山内中一年︶始め二百三十三人 ︻家庭の部︼ ▽天満宮賞 大槻夏葉︵大徳寺保育園年長︶、古島利一︵御所南小 一年︶、山中柚葉︵亀岡市立安詳小二年︶、安田伊志︵一燈園小三年︶、 亀井心寧︵楽只小四年︶、西村日向︵京田辺市立普賢寺小五年︶、三 好百々花︵亀岡市立つつじヶ丘小六年︶、段本まなみ︵亀岡市立南 桑中一年︶、岩見知紗︵洛南中二年︶、美馬光︵南丹市立八木中三年︶ ▽京都新聞賞 濱之上央︵京都教育大附属小一年︶、合志知優︵京 都教育大附属京都小中学校二年︶、塩田友紀︵百々小三年︶、服部潤︵白 川書道塾四年︶、杉江悠吾︵京都子ども文化会館五年︶、石原早樹︵祥 栄小六年︶、荒木涼花︵伏見中一年︶ ▽鳩居堂賞 川 拓海︵大徳寺保育園年長︶、余田結衣奈︵門真市 立門真みらい小二年︶、芦原英太︵亀岡市立詳徳小三年︶、船越望乃︵大 久保小四年︶、佐々木陽平︵上賀茂小五年︶、土井田将和︵音羽小六 年︶、増田善也︵旭丘中二年︶ ▽金賞 松村洋都志︵上賀茂小一年︶始め百九十六人 ▽銀賞 岡部なな︵阪本教室・小一年︶始め三百十七人 ︿審査員の講評﹀ 大雪の中でもこれだけ多くの子供たちが﹁天満書﹂を奉納したと いう気持ちがうれしい。今やこの催しが完全に京都の新年の風物詩 として根付いているからだ思う。神前で書いて奉納した作品は、一 年をこういう年でありたいという願いが感じられた。選ぶ方として は全員を入選作にしたいぐらいだが、審査となると基本に忠実に名 前まできちんと書いている作品を選ぶことになる。小学校高学年の 作品が一番充実しているように思えた。家庭の部の作品も結構心を 込めて書いたものが多かった。 たくさんの作品を見せていただいたが一枚一枚に書き手の気持ち が籠っており、新年に当たって天満宮に奉納するのだという意気込 みが感じられ、一般の書道展にはないものがある。 北野天満宮社報 春号 vol.6 13 初 天 神 の 一 月 二 十 五 日、 穏 や か な 好 天 と な り、 終 日参拝者でにぎわった。 表参道沿いには多くの 露 店 が 並 び、 朝 か ら 夕 刻 まで参拝の人波は途絶え ることなく続いた。すでに 受験シーズンに入ってお り、 本 殿 前 の 中 庭 は、 祈 りを捧げる人の行列がで き た。 ま た、 牛 舎 周 辺 も 受 験 生 ら で 混 み 合 い、 傍 ら の 絵 馬 掛 け 所 は、 志 望 校 を 書 い て 掛 け、 手 を 合 わす人で終日混雑した。 梅苑が二月七日から開苑した。今年の一番梅の開花 は 十 二 月 十 八 日 の 早 咲 き 種 の 紅 梅 で、 厳 冬 の 影 響 に よって過去十年間ではもっとも遅い開花日となった。 しかし、その後は順調に咲き出し、開苑した梅苑や境 内は梅の香が漂った。 節分の二月三日、午前十時から本殿で節分祭を斎行するとと もに午後一時から神楽殿において北野追儺︵ついな︶狂言・日 本舞踊の奉納があり、最後は盛大に豆まきを行って向こう一年 間の災厄を祓った。 京都では節分ゆかりの四社寺を参詣する習わしが﹁四方詣り﹂ として今も残っており、当宮は、その最後を担う重要な社とし て信仰されている。 北野追儺狂言は、茂山千五郎社中による奉納で、摂社福部社 の御祭神福の神が都を荒らす鬼を追い払う筋書き。﹁鬼は外!﹂ の掛け声で、福の神に豆をまかれ、鬼が退散すると参拝者から 拍手がわいていた。 引き続き上七軒歌舞会の芸舞妓による日本舞踊の奉納があり、 最後は出演の狂言師や芸舞妓が﹁福は内!﹂と、威勢良く福豆 袋をまいた。 ﹁梅花祭野点大茶湯﹂でお点前 の奉仕をした上七軒歌舞会の芸 舞妓さんらが祭について一句つ く り 、献 句 し た 。 橘 宮 司 が 審 査 し 、 天・地・人・佳作を選んだ。 14 北野天満宮社報 春号 vol.6 こよなく梅を愛された御祭神菅原道真公の祥月命日に当たる梅花祭が二月二十五日午前十時から本 殿で厳かに斎行され、御遺徳を偲んだ。 神前には、当宮神人の末裔で組織される七保会の会員が調製した大小の台に蒸した米を盛った﹁大 飯︵おおばん︶﹂﹁小飯︵こばん︶﹂の﹁梅花の御供﹂や紅白の梅の小枝を挿した﹁紙立︵こうだて︶﹂ の二種の特殊神饌を奉饌して斎行された。 神職は、菜種が宥︵なだ︶めるに通じるとする慣例によって冠に菜の花をつけて祭典の奉仕に当たり、 今年も皇后陛下の御代拝として宮内庁京都事務所長が参向され、御拝礼された。 五十種・約千五百本の梅は全体としては五分咲きだったが早咲き種は満開。 三光門前西広場では秀吉公の﹁北野大茶湯﹂にちなむ恒例の﹁梅花祭野点大茶湯﹂、が行われ、梅 の香がほのかに漂う中、上七軒歌舞会の芸舞妓さんのお点前で優雅に一服を楽しむ参拝者の長い行列 ができた。 この日の京都は、平年より三度以上高い最高気温十三・八度のポカポカ陽気となり、早朝から夕刻 まで参拝者で大賑わいとなり、本殿前や露店の並ぶ表参道は、終日混雑、二月七日に開苑した梅苑も 賑った。 崇敬者組織、梅風講社︵小石 原満講社長︶の祭典である梅風 祭が三月二十五日午後三時半か ら本殿で斎行された。 祭 典 に は 約 五 十 人 が 参 列 し、 白衣・緋袴姿の八乙女が優雅に 鈴舞を奉納した。この後、関係 者が玉串を捧げて梅風講社の 益々の隆盛と講社員の無病息災 を祈願した。 鈴舞を奉納した八乙女は次の みなさん。 後藤初寧、成田悠香、青山璃南、 青山愛実、泉 珠以、田村みその、北村柊奈、田子夢乃 北野天満宮社報 春号 vol.6 15 本殿前の紅梅は飛梅伝説伝承の御神木と伝えら れ て い る が、 こ れ ま で む ず か し い と さ れ て き た 組 織 培 養 に よ る 苗 木 の 増 殖 に 成 功 し、 三 月 四 日、 研 究に携わってきた住友林業と当宮による共同記者 会 見 が 社 務 所 大 広 間 で 催 さ れ た。 近 年、 梅 の ウ イ ルス病が蔓延、各地で大量伐採被害が出ており、 ﹁御 神木の梅﹂をどう守るかが喫緊の課題となってお り、 組 織 培 養 に よ る 苗 木 増 殖 に 成 功 し た こ と で、 そ の D N A は、 永 久 に守り継がれていく こととなった。 梅 の 寿 命 は、 一 般 的には百年から二百 年 と い わ れ て い る が、 本 殿 前 の﹁ 御 神 木 の 梅 ﹂ は、 麻 耶 系 の 紅 梅で幹回りなどから 樹齢三百年以上と推 定される古木中の古 木。 古 く よ り 植 物 の 増 殖 に は 接 ぎ 木、 挿 し木の技術が行われ て き て お り、 今 回 の 調 査 に よ る と、 御 神 木に接ぎ木が施され た形跡が見られるこ とから、さらに年数・ 時代が遡ることが判 明 し た。 今 後 の 調 査 が期待される。 当 宮 所 蔵﹃ 宮 仕 日記﹄の寛政五年 ︵一七九三︶十一月 二 十 五 日 の 条 に﹁ 庭 樹齢300年を超える御神木の飛梅「紅和魂梅(べにわこんばい)」 16 北野天満宮社報 春号 vol.6 住友林業筑波研究所による梅の苗木の組織培養研究 上︵ 本 殿 前 ︶ 友 林 業 へ 技 術 協 力 立てている。さらに飛梅伝説は全国にあるものの、 の 梅 の 木 は、 を要請していた。 当 宮 は 天 神 信 仰 発 祥 の 天 満 宮 と し て、 こ の 菅 公 の いわゆる飛梅 挿 し 木・ 接 ぎ 木 御 心 が 宿 っ た﹁ 御 神 木 の 梅 ﹂ の 苗 木 を 増 や し、 必 〝 平成の飛梅伝説 〟 の種に間違い による苗木の育成 要とされる全国の社に贈って、 をつくる夢も持っている。 な い が、 こ の は比較的容易に出 梅の前に飛梅 来 る が、 木 の 若 ま た、 今 回、 地 主 神 社 前 の 紅 梅 も D N A 鑑 定 の 結 果、 本 殿 前 の﹁ 御 神 木 の 梅 ﹂ と 同 じ 種 で あ る こ 木と記した石 返りが望めないと とが判明した。 碑を建てるか こ ろ か ら、 組 織 培 なお、この日の記者会見には、二十一社の新聞・ どうか﹂と 養による増殖を選 テレビなどの報道陣が駆けつけ、発表に聞き入った。 いった内容の 択 し た。 実 梅 の 組 京都西町奉行 織培養については、 所とのやり取 これまで成功例は 花 鎮 祭 を 斎 行 し 、ウ イ ル ス 終 息 を 祈 願 りの様子が書 あるものの花梅に 記 者 会 見 に 先 立 っ て、 こ の 日 午 前 十 一 時 か ら 本 か れ て お り、 ついては、まだ世界で報告例はないという。 殿 で 花 鎮 祭︵ は な し じ め の ま つ り ︶ を 斎 行 し、 プ もうそのころ ﹁御神木の梅﹂の組織培養に当たった住友林業筑 か ら﹁ 飛 梅 伝 波 研 究 所 の 研 究 員 は﹁ 梅 の 芽 を 使 っ て 組 織 培 養 し ラ ム・ ポ ッ ク ス・ ウ イ ル ス が 終 息 す る こ と を 祈 願 した。 説﹂伝承の御 た。 梅 は 桜 と 異 な り 極 め て 繊 細 な 植 物 で、 適 し た 神木として特別視されてきたことがわかっている。 培 養 液 を 作 る の が む ず か し く 何 回 も 失 敗 し た。 昨 境 内 に は 五 十 種・ 約 千 五 百 本 の 梅 の 木 が あ り、 年 一 月 に 天 満 宮 か ら い た だ い た 芽 を 使 っ て 行 っ た ﹁ 紅 和 魂 梅 ﹂ と 命 名 市 内 で も 有 数 の 梅 の 名 所。 近 年、 ウ メ や バ ラ な ど 培養でやっと成功した﹂と苦労を話されていた。 橘 宮 司﹁ 御 神 木 の 梅 ﹂ に バ ラ 科 植 物 に 広 く 感 染 す る﹁ プ ラ ム・ ポ ッ ク ス・ 組織培養に ウイルス﹂︵PPV︶が世界各地で発生、六年前に よって育てた苗 組織培養が成功し は東京都の梅林で約千七百本が伐採されるなど平 木 は 現 在、 高 さ たことにちなみ橘宮 司は、飛梅伝説の伝 成 二 十 六 年 五 月 現 在、 感 染 は 十 都 府 県・ 三 十 八 市 十五センチほど 町に広がっている。 の 六 本。 こ れ が 承の木である本殿前 五十センチ程度 の﹁御神木の梅﹂に 幸い京都府内でのPPV感染については現在の と こ ろ、 確 認 さ れ て い な い も の の、 当 宮 で は 感 染 の 安 心 で き る 苗 ﹁ 紅 和 魂 梅︵ べ に わ を 防 ご う と 毎 年、 消 毒 と 栄 養 補 給 に 力 を 注 ぎ、 ウ 木に育つには三 こ ん ば い ︶﹂ と 命 名 イルス拡散の原因の一つとされるアブラムシの駆 年 程 度 が 必 要 で、 した。学問の神とし 除 に 力 を 注 い で き た。 と く に﹁ 御 神 木 の 梅 ﹂ は、 まず菅公がお住 て崇敬される菅公の 古 木 で あ り、 い わ ば 菅 公 の 御 心 が 宿 っ て い る 信 仰 ま い さ れ て い た ﹁和魂漢才﹂の精神 の 木 だ け に、 何 と し て も そ の 種 を 後 世 に 守 り 継 い 場所を模した紅 を末永く伝えられる で い か ね ば な ら な い と の 思 い か ら 六 年 前、 様 々 な 梅殿の庭などに ことを願っての命名 樹 木 の 組 織 培 養・ 苗 生 産 技 術 の 成 功 実 績 を 持 つ 住 植樹する計画を となった。 菅公の御心宿る御神木の苗木 北野天満宮社報 春号 vol.6 17 境内梅の安全無事とウイルスの終息を祈願 美術作家・演出家やなぎみわ氏製造の移動舞台車「花鳥紅(かちょうこう)」 と、 京 都 (性 に ) 繋げよう ― 東 日 本 大 震 災 の﹁ 悲 し み ﹂ を 生 死 を 超 え た ア ニ マ 霊 大学﹁モノ学・感覚価値研究会﹂は、三月七日から十四日まで当宮社務所などで﹁悲 と ア ニ マ ﹂展 を 開 催 し た 。 と く に 大 震 災 か ら 四 年 目 に 当 た る 十 一 日 夜 に は 駐 車 場 内 に巨大な移動舞台車を配置し、犠牲者の鎮魂を祈願する能舞などを奉納した。 主 催 者 側 が 当 宮 を こ の 催 し の 会 場 に 選 ん だ 理 由 は 、北 野 の 地 に は 古 く か ら 雷 神 信 仰 な ど の 自 然 信 仰 が あ り、 そ の 上 に 人 神 と し て の 菅 公 へ の 鎮 魂 と 顕 彰 の 信 仰 が 加 わったものし、 ﹁悲しみ﹂を、生きる力に転換させる力が備わっている、からという。 ﹁ 鎮 魂 能 舞 ﹂ は、 現 代 美 術 作 家、 や な ぎ み わ さ ん が 制 作 し た 移 動 舞 台 車 上 で、 淡 路 人 形 座 に よ る 人 形 浄 瑠 璃、 電 気 紙 芝 居 に 引 き 続 き 行 わ れ た。 ラ イ ト ア ッ プ の 中、 神 道 ソ ン グ ラ イ タ ー の 肩 書 を 持 つ 鎌 田 東 二﹁ 京 都 大 学 こ こ ろ の 未 来 研 究 セ ン タ ー﹂ 教 授 が ほ ら が い や 横 笛・ギ タ ー な ど の 楽 器 を 駆 使 し ﹁ 護 り た ま え 、 鎮 め た ま え ﹂ と 、 祈りの詞を奉じる中、観世流能楽師の河村博重氏が、この催しのために作られた﹁天 神﹂を舞い、観衆を幽玄の世界に誘った。 終 演 後 、鎌 田 教 授 は ﹁ 本 日 は 大 変 寒 い 中 で の 鎮 魂 の 思 い を 込 め て の 奉 納 と な っ た 。 四 年 前 の 三 月 十 一 日 は 、東 北 の 厳 し い 寒 さ の 中 で 、た く さ ん の 方 た ち が 亡 く な ら れ た。この悲しみを私たちは決して忘れてはならない﹂と、挨拶した。 こ の 日 、御 土 居 内 の 茶 室 梅 交 軒 で は 、被 災 地 に 二 千 点 以 上 の 陶 器 を 寄 贈 し た 造 形 美 術 家 の 近 藤 髙 弘 氏 が﹁ 命 の ウ ツ ワ プ ロ ジ ェ ク ト ﹂に お い っ て 制 作 し た 茶 碗 を 使 っ ての﹁鎮魂茶会﹂が、被災地 への服喪と再生を祈念して 行われた。 社務所などで七日から 十四日まで行われた美術展 は、 被 災 地 の 復 興 し て い く 過程を石と木で表現したス テ ィ ー ヴ ン・ ギ ル 氏 の 作 品 や松生歩さんの絵画など約 三 十 点 が 展 示 さ れ 、連 日 、参 拝者の鑑賞でにぎわった。 18 北野天満宮社報 春号 vol.6 美術家近藤髙弘氏による鎮魂茶会 能舞「天神」で熱演する鎌田東二氏と観世流能楽師河村博重氏 大勢の来場者が訪れた「悲とアニマ」展 御本殿にて「四條かぶき」奉納 感謝状贈呈 玉串拝礼 十富茶室外観 19 北野天満宮社報 春号 vol.6 4月16日∼19日 「文子さん」「文子祭」と呼ばれ て親しまれている末社文子天満宮 の例祭。 4月16日(木)から19日(日) まで4日間にわたり斎行する。 御祭神菅原道真公の冤罪が晴れた日に 当たる4月20日、その喜びを神前に奉 告する祭典。 6月1日 「雷除大祭」の愛称で親しまれる摂社 火之御子社例祭。6月1日早暁午前4時 から斎行。 中学生を中心とする修学旅行中の昇殿 参拝。5月上旬から下旬にかけて一番の ピークを迎える。 酒造組合や酒造会社の代表らが参列 し、神前に新酒を供え、よい酒ができ たことに感謝するとともに酒造りの安 全と業界の繁栄、関係者の息災を祈願 する祭典。 北野天満宮社報 春号 vol.6 20 [4月] 4月1日 午前 10 時 月首祭 3日 午前 9 時半 神武天皇陵遥拝式 天皇皇后両陛下帛琉共和国 御渡航行幸啓安泰祈願祭 12日 午前 10 時 賣茶本流献茶祭 煎茶賣茶本流家元 渡邊琢宗宗匠奉仕 月次祭 15日 午前10時 天皇皇后両陛下帛琉共和国 御渡航還幸啓奉告祭 摂社 地主社例祭 16日 午前10時 午後 2 時 末社 文子天満宮神幸祭 19日 午後 4 時 末社 文子天満宮還幸祭 明祭(中祭式) 20日 午前 10 時 25日 午前 9 時 月次祭 午後 4 時 夕神饌 29日 午前 10 時 昭和祭 [5月] 5月1日 午前 10 時 月首祭 5日 午前 10 時 児童成育祈願祭 献酒祭 13日 午前 11 時 15日 午前 10 時 月次祭 25日 午前 9 時 月次祭 午後 4 時 夕神饌 [6月] 6月1日 午前 4 時 摂社 火之御子社例祭(雷除大祭) 午前 9 時 月首祭 7日 午前 10 時 二條流献茶祭 煎茶道二條流家元二條雅荘宗匠奉仕 9日 午前 10 時 宮渡祭(中祭式) 10日 午前 10 時 青柏祭 15日 午前 10 時 月次祭 17日 午前 10 時 末社 竃社例祭 25日 午前 9 時 御誕辰祭(中祭式) 午後 4 時 夕神饌 30日 午後 4 時 夏越の大祓式・茅の輪神事 [4月] 4月 1日 5日 15日 26日 [5月] 5月 1日 10日 15日 24日 [6月] 6月 1日 14日 15日 28日 [7月] 7月 1日 12日 15日 26日 21 献茶祭保存会 梅交会 献茶祭保存会 松向軒保存会 紫芳会 大塚 宗香 村岸 宗紫 木村 宗光 森田 宗圓 鬼塚 宗節 (明月舎) (松向軒) (明月舎) (松向軒) (松向軒) 献茶祭保存会 梅交会 献茶祭保存会 松向軒保存会 紫芳会 分林 宗由 田中 宗恵 前田 宗音 秦 宗周 新居 万太 (明月舎) (松向軒) (明月舎) (松向軒) (松向軒) 献茶祭保存会 梅交会 献茶祭保存会 松向軒保存会 紫芳会 不審菴社中 横田 宗重 北風 宗照 仙水会 植中 宗佳 (明月舎) (松向軒) (明月舎) (松向軒) (松向軒) 献茶祭保存会 梅交会 献茶祭保存会 松向軒保存会 紫芳会 多門 宗粒 合同茶会 速水滌源居 山本 宗朝 今村 宗幸 (明月舎) (松向軒) (明月舎) (松向軒) (松向軒) 北野天満宮社報 春号 vol.6 御祭神・菅原道真公が北野の地に鎮座さ れた日に当たる6月9日に祭典を執行する。 柏の葉に御飯を包み、 神前に供え季節の変わ り目の神事として無病 息災を祈願する。 正月の縁起物「大福梅」となる 梅の実の摘み取りを6月中旬から 約一週間がかりで行う。 6月25日は御祭神菅原道真公の誕生日に当たり御誕 辰祭を斎行。楼門では恒例の「大茅の輪くぐり」を行う。 夏越の大祓を6月30日午後4時から本 殿前中庭にて斎行する。 い い、﹁ 風 中 琴 ﹂ 以 下 十 七 首 が 掲 載 さ れ て い る︵ 公 に よ れ ば 三 首 は 後 に 失 わ れ た と い う ︶。 ち な み に 道 真公は、時に左大弁・侍従で、春宮亮を兼任していた。 又、 寛 平 九 年︵ 八 九 七 ︶ 六 月 に ぞ、 中 納 言 よ り 道 真 公、 一 時 に 十 首、 二 時 に 二 十 首 の 詩 を詠む。ついで大納言に就任する。 ・ ﹁任大納言拝賀﹂の段 │﹁一時十首詩作﹂ 寛 平 七 年︵ 八 九 五 ︶ 三 月 二 十 二 日︵ 後 述 の﹃ 菅 家 文 草 ﹄ に よ れ ば、 三 月 二 十 六 日 ︶ の こ と、 ま だ 東 宮 大 納 言 に 上 り て、 や が て 其 の 日、 大 将 に 宣 旨 下 さ て、 本 絵 巻 第 二 巻 第 三 段 に あ た る 詞 書 は、 以 上 の内容に続いて ︵ 皇 太 子 ︶ で い ら っ し ゃ っ た﹁ 延 喜 の 御 門︵ 醍 醐 天 り し か ば、 三 度 ま で 御 辞 退 あ り し か ど 許 さ れ ず と 記 し︵ 厳 密 に は、 権 大 納 言 兼 右 近 衛 大 将 に 就 任。 皇︶﹂から令旨︵皇太子などの命を伝える文書︶が下 時 間 ︶ の う ち に 十 首 の 詩 を 作 れ る で あ ろ う、 と の 仰 同 日 に、 や が て ラ イ バ ル と な る 藤 原 時 平 は 大 納 言 兼 し て、 其 の 年 の 十 月 に、 延 喜 の 御 門 位 に 即 か せ せ が あ っ た。 そ こ で、 そ の 場 で 十 の 題 目 を 給 っ た 道 左 近 衛 大 将 と な っ た。 な お 醍 醐 天 皇 の 即 位 は 七 月 が り、 大 唐 国 に は 一 日 に 百 首 の 詩 を 作 る 者 が い る と 聞 真 公 は、﹁ 酉 の 刻 か ら 戌 の 時︵ 午 後 六 時 ∼ 八 時 ︶﹂ に 正 し い ︶、 そ の 直 後 に 計 七 紙 に わ た る 長 い 画 面 を は 給ひて、万機を摂録︵籙︶して、 か け て 十 首 を 詠 作 し て 東 宮 に 献 じ た。 そ の 翌 年 に は さんで、第四段の詞書冒頭の く が、 才 智 並 ぶ 者 も い な い 道 真 の こ と、 一 時︵ 約 二 重 ね て 令 旨 が 下 り、 二 時 の う ち に 二 十 首 の 詩 を 作 っ て 献 じ た の で、﹁ 昔 も 今 も 斯 か る 不 思 議 な し ﹂ と 大 せ給ひけり 昌 泰 二 年︵ 八 九 九 ︶ 二 月 に ぞ、 右 大 臣 に 上 が ら に続いている。 な ど に も 採 録 さ れ た 詩 で あ る。 後 者 は、﹁ 去 春 十 首 ﹂ 春﹂を引用しており、これは藤原公任撰﹃和漢朗詠集﹄ ﹁夜雨﹂以下の十首を掲げる。詞書では、冒頭の﹁送 い。 一 方、 左 端 に は、 軒 先 に 釣 灯 籠 が 下 げ ら れ た 宮 世 時 の 同 門 の 結 構︵ 七 間 五 戸 ︶ の 正 確 な 再 現 で は な 宮 城 の 正 門 で あ る 朱 雀 門 と 説 明 さ れ る が、 道 真 公 在 衣 姿 の 人 物 が く ぐ っ て い く 様 子 を 描 く。 し ば し ば、 画 面 は、 ま ず 右 端 に 基 壇 を 設 け た 朱 塗 り 白 壁 の 壮 麗 な 宮 門︵ 屋 根 に は 鳩 が た む ろ す る ︶ を、 白 張 や 狩 に 続 い て﹁ 東 宮 寓 直︵ 宿 直 ︶ の 次 に ﹂ も の さ れ た と 暮 春 二 十 六 日 ﹂ 云 々 の 説 明 の も と、﹁ 送 春 ﹂﹁ 落 花 ﹂ 以 上 の エ ピ ソ ー ド は、 い ず れ も 公 の 詩 文 集﹃ 菅 家 文 草 ﹄ 巻 五 に 基 づ く も の で、 前 者 は﹁︵ 寛 平 ︶ 七 年 評判になった。 「任大納言拝賀」の段 22 北野天満宮社報 春号 vol.6 殿 が あ り︵ や は り 屋 根 に は 鳩 の 姿 が 見 え る ︶、 そ の 間の広々とした空間に十名ほどの行列が描かれてい る。 中 央 に は、 黒 の 袍、 白 袴 を は き、 後 方 に 長 々 と 裾 を 引 い て い る 束 帯 姿 の 道 真 公。 先 頭 に は、 先 駆 を つ と め る 二 人 の 公 卿、 そ し て 道 真 公 の 前 後 に は、 細 纓 に 緌 の 冠 を か ぶ り、 青 色 の 袍 を 着 し た 随 身︵ 身 辺 る も の が あ り、 今 後 は 白 楽 天 の 詩 巻 は 書 箱 の 中 に し ま い こ ん で 取 り 出 さ な く な る で あ ろ う、 と ま で 述 べ 画 面 は、 宮 殿 の 階 下 に 随 身 二 人 と 狩 衣 姿 の 人 物、 ま た 階 上 の 簀 子 に 二 人 の 公 卿 が 描 か れ る が、 道 真 は なお以上をもって、本縁起の第二巻が終わる。 「家集奏覧」の段 警護にあたる武官︶たちの姿が描かれる。 こ の 画 面 は、 一 応、 任 大 納 言 の 拝 賀︵ 新 任 の 謝 意 を 告 げ る 拝 礼 の 儀 ︶ を 描 い た も の と 考 え ら れ る が、 前 述 の、 詩 作 の た め に 東 宮 の お 召 し に 応 じ る 道 真 の 姿が重ね合わされているようにも見うけられる。 道 真 公、 右 大 臣 に 就 任 す る。 つ い で 祖 父 以来三代の家集を天覧に供する。 │﹁任右大臣﹂・﹁家集奏覧﹂の段 こ の 段 の 詞 書 は、 先 に 引 用 し た 右 大 臣 就 任 の 記 事 に続いて 昌 泰 三 年︵ 九 〇 〇 ︶ 八 月 か と よ、 祖 父 三 位︵ = 清 公 ︶ の 家 の 集、 菅 相 公︵ = 父 是 善 ︶ の 家 の 集、 我 が 文 草 二 十 巻、 漏 ら さ ず 天 覧 に 備 へ 給 ひ し に、 叡感の余りに、詩をぞ作らせ給ひける。 と 記 し、 そ の 後 に、 醍 醐 天 皇 の 御 製 の 詩 を 掲 げ て い る。 す な わ ち、 道 真 公 は、 右 大 臣 就 任 の 翌 年 八 月 に、 られたのであった。 巻、﹃ 菅 相 公 集 ﹄ 十 巻、﹃ 菅 家 文 草 ﹄ 十 二 巻 ︶ を 奏 覧 す で に 建 物 の 中 に い る よ う で あ る。 建 物 は 前 段 左 端 祖 父 以 来 三 代 に わ た る 家 集︵ い わ ゆ る﹃ 菅 家 集 ﹄ 六 し た と こ ろ、 天 皇 は 感 動 の あ ま り 詩 を 詠 ま れ た と い と 同 構 図 で あ る が、 釣 灯 籠 は 無 く、 基 壇 の 文 様 も 相 違し、さらには屋根に鳩の姿も描かれていない。 う。その詩の結句には︵書き下して引用︶ 更に菅家の白様に勝れること有り 茲れより抛ち劫てて匣の塵こそ深からめ と あ り、 道 真 の 詩 は、 か の 唐 代 の 詩 人 白 楽 天 に も 勝 北野天満宮社報 春号 vol.6 23 献茶祭保存会だより ●平成二十七年 役員会並びに初寄り 一 月 七 日 午 前 十 一 時 か ら 明 月 舎 で、 献 茶 祭保存会役員並びに平成二十七年明月舎月 ボーイスカウト第八十五団だより ●伊勢の神宮参拝 一 月 十 八 日、 ビ ー バ ー 隊・ カ ブ 隊・ ボ ー イ隊合同による、恒例の神宮参拝を行った。 も恵まれ、ま 当日は天候に れ た。 こ れ に 先 立 ち、 午 前 十 時 半 か ら は 社 して内宮を参 ずは外宮、そ 釜奉仕者による献茶祭保存会初寄りが催さ 関する件等の審議が行われた。 物などを食べ 探しや伊勢名 丁ではお土産 拝。おかげ横 務 所 に て 役 員 会 を 開 催 し、 来 年 度 予 算 案 に 初 寄 り で は、 宮 司 挨 拶 に 続 き 月 釜 奉 仕 者 に 対 し 委 託 書 を 交 付、 各 月 釜 の ご 奉 仕 を お 願い申し上げた。 ながら楽しい 時間を過ごし た。 神若会だより ●京都平安・京都橘・京都北・京都洛北 ・京都洛央ライオンズクラブ ∼合同新春例会で天神太鼓披露 京 都 平 安・ 京 都 橘・ 京 都 北・ 京 都 洛 北・ 京 都 洛央のライオン ズクラブによる 新春合同例会が 一 月 十 五 日、 か らすま京都ホテ ルにて開催され、 北野天神太鼓会 が 和 太 鼓 を 披 露 し た。 お よ そ 百 名 の 会 員 が 参 加 す る 中、 京 都 平 安 ラ イ オ ン ズ ク ラ ブ 幹 事の梶谷誠氏の紹介により、﹁祝い太鼓﹂や ﹁翔龍﹂﹁一心﹂といった天神太鼓の代表曲 を演奏し、新春例会を盛り上げた。 24 北野天満宮社報 春号 vol.6 髙田 吉田 木戸 河野 土井 河尻 田邊 古結 小関 和田 井田 西出 廣岡 山本 卓志・咲枝 卓爾・響子 勇策・優希 浩人・優希 健司・志穂 純平・康子 淳平・麻奈未 敦士・英利香 雅明・雅子 崇・真輝 陽介・梓 俊・佳菜 大裕・恵 展之・陽子 ご夫妻 ご夫妻 ご夫妻 ご夫妻 ご夫妻 ご夫妻 ご夫妻 ご夫妻 ご夫妻 ご夫妻 ご夫妻 ご夫妻 ご夫妻 ご夫妻 一月 九日︵金︶京都学園大学 一月 十八日︵日︶野上八幡宮 二月 二日︵月︶NHK文化センター︵大阪︶ 二月 五日︵木︶NHK文化センター︵京都︶ 八日︵日︶尾上八幡宮氏子総代会 二月 二月 十五日︵日︶滝谷山不動院 二月 十七日︵火︶京都シニア大学 史跡探訪部 二月 二十七日︵金︶山神社総代会 二月 二十八日︵土︶北野天満宮神若会 一日︵日︶池浦天満宮 三月 心游舎 四日︵水︶城陽市寺田西地区民生児童委員協議会 三月 三月 五日︵木︶白山比咩神社・吉田天満宮 全国天満宮梅風会理事会 七日︵土︶三井住友VISAカードプレミアム会員 三月 三月 八日︵日︶JR東海プレミアム会員 十日︵火︶群馬県神社庁吾妻支部 三月 三月 十五日︵日︶菅原神社 三月 十七日︵火︶日本税理士会連合会 三月 二十二日︵日︶京都連歌の会 三月 二十三日︵月︶全国天満宮梅風会京都府支部役員会 三月 二十五日︵水︶金光教神戸灘教会長 三宅 修 三月 七日︵土︶ 七日︵土︶ 三月 八日︵日︶ 三月 八日︵日︶ 三月 三月 十四日︵土︶ 三月 十四日︵土︶ 三月 十五日︵日︶ 三月 二十一日︵土︶ 三月 二十一日︵土︶ 三月 二十二日︵日︶ 三月 二十八日︵土︶ 三月 二十九日︵日︶ 三月 二十九日︵日︶ 三月 三十一日︵火︶ 北野天満宮社報 春号 vol.6 25 濱崎加奈子選 ︻評︼一年でもっとも気ぜわしい時。同時に、一年という時間を振り返 る時。さらにその巡る時の中で、自身の生き方そのものを問う時でもあ る。小さな単位の時間と、大きなスケールの時間と。そのどちらもが複 層的に交わる歳末、人はそれぞれ時への思いを廻らせる。 ︻評︼子供の頃に読んだ本を大人になって読む。過去の人々の思いを行 間に読む。文字離れと言われる時代にあっても、本の役割は失われない。 ︻評︼身体部位の中でも、心の状態や体の変化が色としておもてにあら われるところ。その色を詠んだ歌。﹁梅の花紅の色にも似たるかな阿呼 がほほにつけたくぞある﹂道真公五歳の時の作と伝えられる。 ︻評︼桃の節句の歌がみられた。毎年同じ季に飾られる雛人形にはたくさん の思い出がつまっている。最近は古典的な顔立ちの人形が少ないと聞く。和 歌と同様、古来の日本の美意識を大切に伝えていくことができればと願う。 ●献詠奉納についての問い合わせは、北野天満宮献詠係までご連絡ください。 26 北野天満宮社報 春号 vol.6 京都府文化財新指定 根本御影 を示し、その右側を赤で、左側を白で塗り、そ ﹁ 九 月 十 日 ﹂、﹁ 去 年 今 夜 侍 清 涼 / 秋 憶 詩 篇 独 断 こ に 道 真 公 が 流 地 の 太 宰 府 で、 天 皇 か ら 清 涼 当宮所蔵の天神像二幅が、昨年度京都府文化 財に新たに指定された。一つは今回紹介する当 腸/恩賜御衣今有此/捧将毎日拝余香﹂を二行 信 仰 の 貴 重 な 遺 例 で あ り、 神 影 の 優 れ た 作 例 え し ょ う ぞ く ︶ で、 古 様 を 伝 え て お り、 天 神 は﹁捧持﹂である。 日﹂の句では、 ﹁秋憶﹂は﹁秋思﹂、また﹁捧将﹂ ずつ書いている。なお、通常引かれる﹁九月十 殿で衣を下賜されたのを偲んで詠んだ七言絶句 宮で道真公の御影として最も重んじられている ﹁根本御影﹂︵写真1︶である。 と評価されている。 透けてみえ、割菱文を散らしている︵写真2︶。 髻︵ も と ど り ︶ を 収 め る 巾 子︵ と じ ︶ の あ る 冠 を 戴 く。 冠 に 附 属 す る 二 条 の 纓 は 背 後 が 天神像には、大きく分けて束帯天神像、綱敷 天神像、渡唐天神像の三種があるが、本像は束 帯 天 神 像 で、 絹 本 着 色、 大 き さ は、 縦 八 四・三 セ ン チ メ ー ト ル、 横 三 四・二 セ ン チ メ ー ト ル で ある。 注 意 し て 見 た い の が、 写 真 3 に 示 し た 平 緒 の 模 様 で あ る。 平 緒 は、 束 帯 の と き 胴 に 巻 き 黒の袍、霰文の白袴を着す。 から室町時代のものと推測されている。高麗縁 結び余りを前に垂らす幅広の平打ちの組緒の 作者は、鎌倉時代前期の似絵の画家である藤 原信実と伝えられているが、少しさがる南北朝 の上畳に座し、笏を持ち、鋭いまなざしを彼方 こ と で、 儀 仗 の 太 刀 の 佩 緒︵ は き お ︶ と し て 組・新羅組などの別があり、色は紫・紺・櫨︵は 使 用 さ れ た も の で あ る。 位 階 や 官 職 に よ り 唐 に向ける、迫力と威厳に満ちた像である。 着用する装束は、鎌倉時代以降の強装束︵こ わしょうぞく︶ではなく、平安時代の萎装束︵な じ︶などが用いら れ る が、 こ の 尊 像 の 平 緒 は、 装 飾 豊 に 描 か れ、 な か で も青色で賦彩した 最も内側には道真 公ゆかりの白梅樹 が描かれている。 画面の上端左側 には墨線で色紙形