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岐阜女子大学紀要 図 式 で と ら え て き た 。 し か し の ち に 、 新 た に 発 見 さ れ た 出 土 資 料 な ﹃ 史 記 ﹄ 酷 吏 列 伝 は 漢 代 、 景 帝 ・ 武 帝 期 に 活 躍 し た ﹁ 酷 吏 ﹂ と い て 酷 吏 と 循 吏 を ﹁ 法 治 的 法 家 的 官 僚 ﹂ と ﹁ 徳 治 的 儒 家 的 官 僚 ﹂ と の は じ め に 酷 吏 と 対 に な る 循 吏 と の 相 違 か ら 考 察 さ れ る こ と が 多 か っ た 。 そ し 書 ﹄ 酷 吏 伝 の 記 述 か ら 考 察 す る 場 合 で あ る① 。 そ の 際 、 名 称 の う え で ︿ キ ー ワ ー ド ﹀ ﹃ 史 記 ﹄ ・ 酷 吏 列 伝 ・ 史 伝 文 学 に 作 用 し つ つ ト ー タ ル と し て ﹁ 酷 吏 列 伝 ﹂ と し て 成 り 立 っ て い る こ と を 示 し た 。 果 、 酷 吏 列 伝 で は 記 述 さ れ る 酷 吏 の 類 型 化 ・ 個 別 の 伝 を 繋 ぐ 手 段 ・ 酷 吏 と 酷 吏 の 関 係 を 示 す 記 事 に よ っ て 記 述 さ れ る 十 一 人 の 伝 が 相 互 On the “Kuli Liezhuan” in Shiji う ど な の 図 分 式 析 の を み 踏 で ま 割 え り 、 切 当 れ 時 な の い 社 も 会 の に で お あ け る る こ 酷 と 吏 も の 指 実 摘 態 さ と れ し て て い は る② こ 。 の も よ わ れ る 官 吏 十 一 人 の 伝 を 載 せ る 。 要 ﹃ 史 旨 記 ﹄ を 文 学 作 品 と し て 読 む 試 み と し て 、 巻 百 二 十 二 ﹁ 酷 吏 列 伝 ﹂ を 取 り 上 げ 、 そ の 構 成 と 措 辞 の 観 点 か ら 検 討 を 行 っ た 。 そ の 結 ︵ ︶ ― ― Faculty of Cultural Development, Department of Cultural Development う 一 つ は 、 ﹃ 史 記 ﹄ の 列 伝 の 中 で 個 人 名 を 標 題 と し な い 列 伝 の う ち 、 こ れ ま で 酷 吏 列 伝 を 取 り 出 し て 議 論 す る 場 合 、 主 に 二 つ の 側 面 か KAWAI Akino ら 考 察 が 加 え ら れ て き た 。 一 つ は ﹁ 酷 吏 ﹂ と さ れ た 官 吏 た ち が 当 時 (2015. 1.) Received September 19, 2014 ︵ 一 ︶ の 社 会 に お い て い か な る 存 在 で あ っ た か を ﹃ 史 記 ﹄ 酷 吏 列 伝 や ﹃ 漢 第 44 号 ﹃ 史 記 ﹄ 酷 吏 列 伝 を 読 む ︵ 二 〇 一 四 年 九 月 一 九 日 受 理 ︶ 文 化 創 造 学 部 文 化 創 造 学 科 河 井 昭 乃 『史記』酷吏列伝を読む (河井昭乃) 言 え ば そ れ を 支 え る 表 現 の 諸 相 を 文 学 的 に 探 る と す る の が 本 稿 の 目 一 つ の 構 造 体 と し て 成 り 立 た せ て い る し く み は 何 で あ る の か 、 逆 に る 。 済 南 で は 豪 族 䲋 氏 一 族 の 勢 力 に 対 し 太 守 は 統 制 不 能 で あ っ た 。 続 い て 当 時 の 済 南 の 情 勢 と 䌃 都 が 太 守 に 任 命 さ れ た こ と が 記 さ れ の 個 々 の 酷 吏 の 実 態 で は な く 、 十 一 人 に 及 ぶ 酷 吏 の 伝 記 を 有 機 的 に 旁 十 餘 郡 守 、 畏 都 如 大 府 。 は な く 、 相 互 に 繋 が っ て 酷 吏 列 伝 と し て 成 立 し て い る 。 事 実 と し て 濟 南 太 守 。 至 則 族 滅 䲋 氏 首 惡 、 餘 皆 股 栗 。 居 歳 餘 、 郡 中 不 拾 遺 。 ま た そ れ 以 外 の 要 素 に よ っ て も 個 々 の 伝 は バ ラ バ ラ に 存 在 す る の で 濟 南 䲋 氏 宗 人 三 百 餘 、 豪 猾 、 二 千 石 莫 能 制 。 於 是 景 帝 乃 拜 都 爲 酷 吏 は 個 別 の 存 在 で あ り な が ら 共 通 す る 記 述 形 式 に よ っ て 貫 か れ 、 人 物 と し て 登 場 す る 。 酷 吏 列 伝 は 十 一 人 の 酷 吏 の 強 烈 な 存 在 を 記 録 す る が 、 そ れ ぞ れ の が 記 可 述 能 部 で 分 あ を る も こ 含 と め も て こ 、 れ ﹃ ま 史 で 記 の ﹄ 研 が 究 た 成 ぶ 果 ん に に よ 文 っ 学 て 的 示 で さ あ れ り て 文 い 学 る⑤ 的 。 解 釈 で あ る 。 そ う し た 部 分 の み な ら ず 、 客 観 的 事 実 を 記 す よ う に み え る の 記 述 が 歴 史 的 事 実 か 否 か の 尺 度 だ け で は 測 り き れ な い こ と も 事 実 下 賜 さ れ る 。 䌃 都 は 皇 帝 に 対 し て 直 諫 す る こ と も 辞 さ な い 、 剛 直 な 廟 を 危 う く す べ き で は な い と 諫 め 、 そ の 言 動 に よ っ て 太 后 か ら 金 を ず か ら 救 出 に 向 か お う と し た 景 帝 を 、 軽 率 な 行 動 に よ っ て 漢 家 の 宗 い た っ た 経 緯 が 記 さ れ る 。 景 帝 の 寵 姫 が 危 機 的 状 況 に 陥 っ た 際 、 み ま ず 䌃 都 の 出 自 、 さ ら に 上 林 苑 で の エ ピ ソ ー ド か ら 重 用 さ れ る に の 一 方 で 、 ﹃ 史 記 ﹄ に は 事 実 認 定 が 困 難 に み え る 記 事 も 存 在 し 、 そ 亦 去 。 太 后 聞 之 、 賜 都 金 百 斤 。 由 此 重 䌃 都 。 ― か を 追 究 す る の は ﹃ 史 記 ﹄ 研 究 の 第 一 義 的 立 場 と み な さ れ よ う 。 そ 天 下 所 少 、 寧 賈 姫 等 乎 。 陛 下 縱 自 輕 、 柰 宗 太 后 何 。 上 還 、 彘 歴 史 的 事 実 が ど う で あ っ た か 、 書 き 手 の 意 図 が ど う 反 映 さ れ て い る 都 不 行 。 上 欲 自 持 兵 救 賈 姫 。 都 伏 上 前 曰 、 亡 一 姫 、 復 一 姫 進 。 ― 入 り 込 ん で い る と す る な ら ば 、 そ こ に 事 実 が 反 映 さ れ て い る と 考 え 面 折 大 臣 於 朝 。 嘗 從 入 上 林 。 賈 姫 如 廁 。 野 彘 卒 入 廁 。 上 目 都 、 ﹃ 史 記 ﹄ が 歴 史 的 事 象 を 記 述 対 象 と し つ つ そ こ に 書 き 手 の 思 想 が 䌃 都 者 、 楊 人 也 。 以 郎 事 孝 文 帝 。 孝 景 時 、 都 爲 中 郎 將 、 敢 直 諫 し た 書 き 手 司 馬 遷 の 思 想 や 意 図 を 探 る こ と に 重 点 が 置 か れ て き た 。 存 在 の あ り 方 を 探 り 、 登 場 す る 人 物 を 一 括 り に し て ﹁ 酷 吏 列 伝 ﹂ と る そ 前 述 を 個 い 。 う の 対 考 人 ず し 人 象 察 の れ た 物 と す 立 の 対 は す る 場 立 比 登 る 場 や 場 に 場 人 合 属 も 司 せ 物 で 性 ﹃ 馬 ず の あ を 史 遷 、 時 る④ 標 記 の 逆 代 。 題 ﹄ 同 に に こ と の 時 循 は れ す 記 代 吏 偏 ら る 述 批 列 り 雑 も を 判 伝 が 伝 の に あ の 、 事 の は る う い 実 意 漢 。 ち わ と 図 代 例 、 ゆ と が の え 貨 る ら 表 人 ば 殖 雑 え 現 物 酷 列 伝③ 、 さ は 吏 伝 と そ れ 登 列 を 呼 こ て 場 伝 除 ば か い し に い れ ら る な は て る 酷 と い 秦 は 諸 吏 す 。 以 記 編 の の 構 成 を 確 認 し た い 。 げ る 。 そ の 指 摘 を 踏 ま え つ つ 、 最 初 に 登 場 す る 䌃 都 伝 を 例 と し て そ 性 格 ︵ ニ ︶ 窮 治 の あ と ︵ ホ ︶ 他 の 酷 吏 へ の 比 擬 ・ 関 係 の 五 項 目 を 挙 て て い 共 る⑥ 通 。 す 俣 る 野 部 氏 分 は か 構 ら 成 成 要 立 素 し と て し い て る ︵ こ イ と ︶ は 出 す 自 で ・ に 閲 俣 歴 野 ︵ 太 ロ 郎 ︶ 氏 末 が 路 指 ︵ 摘 ハ し ︶ 酷 吏 列 伝 に 合 伝 さ れ る 十 一 人 の そ れ ぞ れ の 伝 が 、 そ の 構 成 か ら み 一 的 で あ る 。 ︵ 二 ︶ 岐阜女子大学紀要 太 守 に 任 命 す る 。 䌃 都 の 評 判 は 匈 奴 に ま で 伝 わ っ て お り 、 匈 奴 に さ ︵ 三 ︶ 太 后 か ら 遠 ざ け る 意 図 が あ っ て か 景 帝 は 䌃 都 を 匈 奴 に 近 い 鴈 門 の 爲 偶 人 象 䌃 都 、 令 騎 馳 射 、 莫 能 中 。 見 憚 如 此 。 匈 奴 患 之 。 匈 奴 素 聴 䌃 都 、 居 邊 爲 引 兵 去 。 竟 䌃 都 死 、 不 近 鴈 門 。 匈 奴 至 え 述 よ の う⑪ 積 。 み 重 ね に よ っ て 人 物 の 類 型 を 示 す の が 酷 吏 列 伝 の 形 式 だ と い 孝 景 帝 乃 使 使 持 拜 都 爲 鴈 門 太 守 、 而 便 道 之 官 、 得 以 便 宜 從 事 。 す る 。 竇 太 后 は 怒 り 、 強 引 に 法 律 を 適 用 し て 䌃 都 を 免 官 さ せ る 。 が が 付 そ さ の れ 能 る⑩ 力 。 を 構 評 成 価 、 し 措 た 辞 と の い 角 う 度 ﹁ か 上 ら 以 判 為 断 能 す ﹂ る お と よ 、 び 同 そ 一 れ パ に タ 類 ー す ン る の 表 記 現 侯 竇 嬰 の 手 配 に よ っ て 筆 記 具 を 得 た 臨 江 王 は 謝 罪 文 を 書 き 上 げ 自 殺 た 際 、 䌃 都 は 臨 江 王 の 希 望 を 無 視 し て 筆 記 具 を 与 え な か っ た 。 魏 其 み か え っ る⑨ た 。 と さ い ら う に ﹁ い ︵ え 致 ば 行 趙 法 禹 ︶ 以 不 降 避 、 貴 武 戚 帝 ﹂ 期 の に 表 登 現 用 は さ 義 れ 縦 た 伝 人 と 物 尹 に 斉 は 伝 武 に 帝 も 景 帝 の 子 で あ る 臨 江 王 が 罪 に よ っ て 召 喚 さ れ 中 尉 府 で 尋 問 を 受 け 第 44 号 の 適 用 を は ば か る こ と な く 、 ﹁ 蒼 鷹 ﹂ と 陰 口 を た た か れ た 。 太 后 聞 之 、 怒 以 危 法 中 都 。 都 免 歸 家 。 予 。 魏 其 侯 使 人 以 閒 與 臨 江 王 。 臨 江 王 既 爲 書 謝 上 、 因 自 殺 。 竇 臨 江 王 徴 詣 中 尉 府 對 簿 。 臨 江 王 欲 得 刀 筆 爲 書 謝 上 、 而 都 禁 吏 不 舒 う 伝 者 に は も な み く え⑧ な 、 っ 中 た 尉 と と い な う っ ﹁ ︵ て 郡 は 中 法 ︶ 律 不 の 拾 適 遺 用 ﹂ に の 高 表 官 現 外 は 戚 義 を 縦 も 伝 避 と け 王 な 温 済 南 太 守 と な り 辣 腕 を 発 揮 し た 結 果 、 民 衆 は 恐 れ 路 上 の 遺 失 物 を 拾 の 述 十 さ 人 れ の 末 伝 尾 に に も 最 共 期 通 ︵ し ロ て ︶ 確 が 認 記 で さ き れ る⑦ る 。 。 ま こ た れ 措 ら 辞 四 に つ つ の い 要 て 素 も は 、 䌃 䌃 都 都 以 が 降 ― 昇 進 し て 中 尉 と な る 。 厳 格 苛 酷 を 第 一 と し 、 高 官 や 外 戚 に も 法 律 ︵ ニ ︶ 、 そ れ と 同 時 に そ う し た 行 動 を 支 え る 厳 酷 な 性 格 ︵ ハ ︶ が 記 ― (2015. 1.) 而 視 。 號 曰 蒼 鷹 。 ま た 臨 江 王 の 取 り 調 べ な ど 有 力 者 な い し 有 力 集 団 の 容 赦 な い 制 圧 罪 自 重 、 而 都 獨 先 嚴 酷 、 致 行 法 不 避 貴 戚 。 列 侯 宗 室 、 見 都 側 目 䌃 都 遷 爲 中 尉 。 丞 相 條 侯 至 貴 倨 也 、 而 都 揖 丞 相 。 是 時 民 朴 、 畏 ず 、 仕 官 し た 以 上 は 職 分 を 全 う す べ き と し て 家 族 も 顧 み な か っ た 。 れ 、 済 南 で は 豪 族 䲋 氏 に 対 す る 、 中 尉 と な っ て は 高 官 外 戚 に 対 す る 、 の 上 林 苑 で の エ ピ ソ ー ド で 出 自 と 任 官 に い た っ た 経 緯 ︵ イ ︶ が 示 さ の う ち ︵ ホ ︶ 以 外 の ︵ イ ︶ ∼ ︵ ニ ︶ の 四 つ が 確 認 で き る 。 ま ず 冒 頭 る ん 滅 。 だ ぼ 。 す 䌃 と 都 一 が 族 最 は 初 震 に え 地 上 方 が 官 り と 、 し そ て の そ 威 の 厳 手 は 腕 郡 を 中 振 の る み っ な た ら こ ず と 周 が 辺 示 に さ も れ 及 そ こ で 景 帝 は 䌃 都 を 済 南 太 守 に 任 命 す る 。 着 任 す る や 䲋 氏 の ボ ス を そ の 性 格 は 勇 敢 で 気 力 あ り 、 賄 賂 や 個 人 的 な 要 請 を 一 切 受 け 付 け え る は 恐 こ 。 臨 し 江 か 臨 竇 れ う 王 し 江 太 ら し の 竇 王 后 れ て 名 太 獨 乃 た み 前 后 非 竟 。 る を は 忠 中 と 持 結 臣 都 、 ち 局 邪 以 䌃 出 法 。 漢 都 し 律 於 法 伝 て で 是 。 に 許 䌃 遂 景 お す 都 斬 帝 い こ を 䌃 曰 て と 陥 都 、 は な れ 。 都 俣 忠 く る 野 臣 、 。 氏 。 䌃 景 の 欲 都 帝 指 釋 は の 摘 之 斬 反 し 。 罪 対 た 竇 に に 五 太 処 も つ 后 せ 竇 の 曰 ら 太 要 、 れ 后 素 自 稱 曰 、 已 倍 親 而 仕 、 身 固 當 奉 職 死 官 下 。 終 不 顧 妻 子 矣 。 都 爲 人 勇 有 氣 力 、 公 廉 不 發 私 書 。 問 遺 無 所 受 、 請 寄 無 所 聽 。 常 『史記』酷吏列伝を読む (河井昭乃) が 関 わ り を 持 っ て い た こ と が 示 さ れ る 。 二 人 に は 接 点 が あ り 、 酷 吏 及 ば な か っ た 。 䌃 都 伝 で は 言 及 が な か っ た が 、 続 く 寧 成 伝 で は 両 者 寧 成 を 中 尉 と し た 。 そ の や り 方 は 䌃 都 を 手 本 と し た が 、 廉 潔 さ で は を 結 ん だ 。 䌃 都 の 死 後 、 都 で 横 暴 を き わ め る 皇 族 対 策 と し て 天 子 は を 凌 い で そ の 上 に 出 る 。 䌃 都 も そ の 評 判 を 聞 い て お り 厚 遇 し て 親 交 尉 が 太 守 を 畏 怖 し 萎 縮 し て い た の と 異 な り 、 寧 成 は 着 任 す る や 䌃 都 と を 意 識 さ せ る 。 周 陽 由 ま で の 三 人 は 官 吏 と し て の 出 発 が 文 帝 ・ 景 が 登 場 す る こ と を 示 唆 し つ つ 、 同 時 に こ こ に 一 つ の 区 切 り が あ る こ 由 以 降 の 社 会 の 変 化 、 こ の あ と に 寧 成 や 周 陽 由 を 雛 型 と す る 官 吏 達 接 人 物 の 記 述 を す る の で は な い 地 の 文 が 挿 入 さ れ る 。 こ の 文 は 周 陽 由 之 後 、 事 益 多 、 民 巧 法 、 大 抵 吏 之 治 、 類 多 成 由 等 矣 ﹂ と い う 、 直 周 陽 由 の 刑 死 を 記 し た の ち 、 趙 禹 の 記 述 に 入 る 前 に ﹁ 自 寧 成 周 陽 寧 成 が 済 南 都 尉 と な る と 、 上 役 の 太 守 は 䌃 都 で あ っ た 。 従 来 の 都 る こ と が で き る 。 人 惴 恐 。 是 上 召 寧 成 爲 中 尉 。 其 治 效 䌃 都 、 其 廉 弗 如 。 然 宗 室 豪 桀 、 皆 人 於 是 善 遇 、 與 結 驩 。 久 之 䌃 都 死 、 後 長 安 左 右 宗 室 多 暴 犯 法 。 於 守 如 縣 令 。 其 畏 都 如 此 。 及 成 往 、 直 陵 都 出 其 上 。 都 素 聞 其 聲 。 稍 遷 至 濟 南 都 尉 、 而 䌃 都 爲 守 。 始 前 數 都 尉 、 皆 歩 入 府 、 因 吏 三 人 は 、 酷 吏 と い う 存 在 と し て は 特 異 な も の で あ っ た こ と を 読 み 取 以 上 の こ と か ら 、 酷 吏 列 伝 の 最 初 に 登 場 す る 䌃 都 ・ 寧 成 ・ 周 陽 由 の 場 す る 周 陽 由 の 伝 に は 他 の 酷 吏 と の 関 係 を 表 す 記 事 は 見 ら れ な い 。 は 䌃 都 の 死 後 、 中 央 に 召 喚 さ れ て 以 降 の 記 述 で 示 さ れ る 。 つ い で 登 用 的 に は た ら い て い な い 。 具 体 的 に 酷 吏 と し て 辣 腕 を 振 る っ た こ と ― い え る そ の 性 格 が 示 さ れ た 後 、 再 度 䌃 都 が 登 場 す る 。 䌃 都 の 斬 罪 を 記 し た あ と に 続 く 寧 成 伝 で は 、 冒 頭 で 出 自 と 陰 湿 と も し か し 、 䌃 都 の 存 在 は 本 伝 内 部 だ け で 完 結 し て い る の で は な い 。 憚 ら な い 、 䌃 都 の 上 を ゆ く 寧 成 の 素 質 で あ る 。 二 人 の 関 係 は 相 互 作 寧 成 の 働 き ぶ り で は な く 、 先 に 示 さ れ た 剛 直 な 性 格 の 太 守 䌃 都 さ え つ と は い え 、 こ の 部 分 の 記 述 か ら 読 み 取 れ る の は 済 南 都 尉 と し て の ― と し て 位 置 づ け ら れ る の と 同 時 に 、 こ の 事 件 に よ っ て 太 后 の 意 に か 示 さ れ た 彼 の 剛 直 な 性 格 は 、 あ と に 続 く そ の 仕 事 ぶ り を 支 え る も の 完 結 し た 枠 組 み の 中 で 語 ら れ て い る よ う な 印 象 を 受 け る 。 太 后 の 評 価 に よ っ て 登 場 し 太 后 の 怒 り に よ っ て 身 を 滅 ぼ す と い う 、 原 因 と な っ て 失 脚 す る 最 期 に 繋 が っ て い く 。 官 吏 と し て の 䌃 都 は 、 機 能 し て い る 。 後 者 は 臨 江 王 の 事 件 で 太 后 の 怒 り を ま ね き 、 そ れ が な い 官 吏 と し て の キ ャ リ ア を ス タ ー ト さ せ た こ と を 示 す も の と し て 存 在 で あ っ た こ と が 示 さ れ る 。 寧 成 は 済 南 時 代 に 䌃 都 と の 接 点 を 持 畏 罪 自 重 、 而 都 獨 先 嚴 酷 、 致 行 法 不 避 貴 戚 ﹂ と 䌃 都 ひ と り が 異 質 な 都 は 前 述 の 通 り 他 の 酷 吏 と の 関 係 は 記 さ れ ず 、 む し ろ ﹁ 是 時 民 朴 、 入 る 前 に 趙 禹 以 前 の 三 人 に つ い て ど う で あ る か 確 認 し て お く と 、 䌃 で た に き と こ あ ︵ 対 あ し の る ホ 比 と て 生 要 。 ︶ ﹁ す の き 素 他 る 中 。 尉 た は の 俣 と 時 特 酷 野 し 間 に 吏 氏 て が 趙 へ の の 重 禹 の 挙 在 な 以 比 げ り っ 降 擬 た よ て に ・ 五 う い 多 関 つ を る く 係 の ﹁ こ み ﹂ 指 其 と ら を 摘 治 を れ 読 の 效 表 る み う 䌃 し よ 取 ち 都 て う る 、 䌃 、 い に こ 都 其 る な と 伝 廉 。 る が に 弗 さ 。 で み 如 ら そ き え ﹂ に の る な と 䌃 議 部 か 䌃 都 論 分 っ 都 亡 に 再 度 䌃 都 伝 に 戻 り そ の 枠 組 み に 注 目 す る と 、 冒 頭 の エ ピ ソ ー ド で 二 ︵ 四 ︶ 岐阜女子大学紀要 他 の 酷 吏 と の 関 係 か ら み た と き の 、 趙 禹 以 降 の 記 述 を ま と め る と ︵ 五 ︶ ⋮ ﹂ 南 陽 太 守 に な る と 家 居 し て い た 寧 成 を つ ぶ し に か か っ た こ と が 三 義 縦 の 記 述 に 戻 り ﹁ 義 縱 自 河 内 遷 爲 南 陽 太 守 、 聞 寧 成 家 居 南 陽 、 に よ っ て 関 都 尉 に 任 命 さ れ た こ と が 記 さ れ る 。 的 に ま と め あ げ る も の と し て 機 能 し て い る と い え る 。 方 向 へ 導 く 働 き を す る の に 対 し 、 後 者 は 人 物 を 相 互 に 関 連 づ け 総 合 た 俣 野 氏 の い う ︵ イ ︶ ∼ ︵ ニ ︶ の 要 素 が 示 す 酷 吏 の 共 通 項 に よ っ て 、 構 造 化 さ れ て い る と い う こ と が で き る だ ろ う 。 一 つ は 前 節 で 確 認 し そ の よ う に 考 え る な ら ば 、 酷 吏 列 伝 の 内 部 は 二 つ の 手 段 に よ っ て た こ と の 記 述 を 承 け 、 公 孫 弘 の 言 葉 を か り て 寧 成 の 厳 酷 ぶ り 、 そ れ 寧 義 結 成 縦 ば れ ﹁ る 寧 武 帝 成 に 。 家 評 居 価 ⋮ さ ﹂ 再 れ 度 河 寧 内 成 都 に 尉 記 と 述 な が っ 及 た ぶ こ 。 と 先 が に 記 寧 さ 成 れ が た 故 あ 郷 と へ 、 戻 っ 壽 卒 于 家 ﹂ 張 湯 に 遅 れ る こ と 十 年 、 天 寿 を 全 う し た 記 事 で 趙 禹 伝 が 王 温 舒 ら は 趙 禹 よ り も 厳 酷 で あ っ た こ と が 記 さ れ ﹁ 後 湯 十 餘 年 、 以 い ま 一 つ は ︵ ホ ︶ の 要 素 に よ っ て 。 前 者 は 酷 吏 の 類 型 を 作 り 上 げ る 第 44 号 (2015. 1.) す る 根 拠 は こ の 点 に あ る と す る 。 篇 じ 文 、 字 記 、 事 奇 が 絶⑭ 錯 ﹂ 綜 と す 、 る 酷 。 吏 陳 列 仁 伝 錫 が は 全 ﹁ 体 敘 を 酷 通 吏 じ 十 て 人 一 、 篇 錯 の 綜 文 聯 章 絡 と 、 し ⋮ て 總 成 成 立 一 こ と に な る 。 そ の 結 果 、 現 実 の 時 間 の 流 れ と 記 述 の 流 れ に ズ レ が 生 来 事 が ﹁ ○ ○ 者 、 ⋮ ﹂ で 分 断 さ れ る 個 々 の 伝 に 分 散 し て 配 置 さ れ る 数 の 人 物 が 出 来 事 を 共 有 し て 進 ん で い く は ず の も の が 、 記 述 上 は 出 が 出 方 分 身 で 断 を 、 さ 表 記 れ す 述 独 記 の 立 事 上 を で で 保 始 は っ ま 各 て っ 酷 い て 吏 る お の よ り⑫ 伝 う 、 は に そ 冒 も れ 頭 み を ﹁ え 指 ○ る⑬ 標 ○ 。 と 者 現 す 、 実 る ⋮ の と ﹂ 時 そ の 間 れ 形 軸 ぞ 式 で れ で は の そ 複 伝 の 軟 化 、 ﹁ 王 温 舒 等 後 起 、 治 酷 於 禹 ﹂ そ れ に 取 っ て 代 わ る よ う な 後 進 趙 さ な 禹 せ り た 失 再 こ 脚 度 と す 趙 が る 禹 記 顛 の さ 末 記 れ 、 述 た 最 に あ 後 戻 と に り 、 ﹁ 、 張 於 趙 湯 是 禹 の 上 の 自 使 経 殺 趙 年 の 禹 に 記 責 よ 事 湯 る で ﹂ 取 張 武 り 湯 帝 締 伝 が ま が 趙 り 結 禹 態 ば に 度 れ 追 の る 及 。 詐 、 舞 智 以 御 之 ⋮ ﹂ こ の あ と 両 者 の 性 格 が 対 比 さ れ る 。 御 史 大 夫 と 禹 に 兄 事 し た こ と 、 ﹁ 禹 爲 人 廉 倨 、 爲 吏 以 來 、 舎 毋 食 客 ⋮ 湯 爲 人 多 趙 禹 遷 爲 中 尉 、 徙 爲 少 府 、 而 張 湯 爲 廷 尉 、 兩 人 交 驩 、 而 兄 事 禹 ﹂ 趙 ― ― 時 間 と 出 来 事 を 共 有 す る よ う に な っ て い く こ と を 意 味 す る 。 そ の 一 記 事 が 増 え る 。 こ の こ と は 、 武 帝 期 以 降 、 酷 吏 の 間 で 複 数 の 人 物 が 張 湯 張 湯 伝 湯 が と ﹁ は 法 湯 じ 令 給 ま 整 事 る 備 内 。 を 史 し 、 た 爲 こ 寧 と 成 を 掾 記 ﹂ し 寧 た 成 あ の と 属 、 ﹁ 官 張 に 湯 な 者 っ 杜 た 人 こ 也 と ⋮ 、 ﹂ ﹁ と 已 張 而 趙 禹 太 中 大 夫 と な り 、 ﹁ 與 張 湯 論 定 諸 律 令 、 作 見 知 吏 傳 得 相 監 司 ﹂ の 関 わ り の よ う な 、 俣 野 氏 の 言 葉 を 借 り れ ば ﹁ 相 互 の 接 渉 ﹂ を 示 す 関 係 ﹂ が そ れ ま で 以 上 に 記 さ れ る 。 特 に 、 寧 成 伝 に み ら れ た 䌃 都 と 以 外 の 酷 吏 の 記 事 が 挿 入 さ れ る こ と を 示 す 。 こ の よ う に 区 切 ら れ た 趙 禹 以 降 の 記 事 に は 、 ﹁ 他 の 酷 吏 へ の 比 擬 ・ 登 場 す る こ と を 示 す 。 傍 線 箇 所 は 他 の 酷 吏 の 名 前 で あ り 、 当 該 人 物 以 爲 能 ﹂ に 類 す る 表 現 を 伴 っ て 登 場 す る よ う に な る の で あ る 。 帝 期 に あ る の に 対 し 、 趙 禹 以 降 の 人 物 は 武 帝 即 位 後 に 上 述 し た ﹁ 上 述 が 始 ま る こ と を 示 し 、 以 下 の 通 り に な る 。 は 既 出 の 人 物 が 再 度 中 心 人 物 と し て は ﹁ ○ ○ 者 、 ⋮ ﹂ の 形 式 で 当 該 人 物 の 記 『史記』酷吏列伝を読む (河井昭乃) 王 温 舒 爲 中 尉 、 而 楊 僕 以 嚴 酷 爲 主 爵 都 尉 ﹂ 天 子 は 王 温 舒 を 中 尉 と し 、 た こ と が 記 さ れ る 。 事 件 の 判 断 ミ ス を 重 ね て 罪 に 問 わ れ 、 ﹁ 上 復 徙 尉 、 聲 甚 於 寧 成 ﹂ 昇 進 し て 関 内 都 尉 と な る と 評 判 は 寧 成 以 上 で あ っ り 張 湯 の も と で 働 き そ の 廉 潔 武 勇 を 評 価 さ れ た こ と 、 ﹁ 遷 爲 關 内 都 尹 そ が 齊 の 失 後 脚 ﹁ は す 以 引 る 刀 き と 筆 延 、 稍 ば 廷 遷 さ 尉 至 れ と 御 記 な 史 述 り 、 は 、 事 尹 尹 張 斉 斉 湯 に が 、 移 中 張 る 尉 湯 。 と な 數 っ 稱 た 以 。 爲 こ 廉 こ 武 で ﹂ 王 御 温 史 舒 と の な 憚 っ て 存 分 に 辣 腕 を ふ る う こ と が で き な か っ た が 、 義 縦 が 死 に 張 湯 敗 後 、 徙 爲 廷 尉 、 而 尹 齊 爲 中 尉 ﹂ さ き に 義 縦 が 内 史 で あ っ た と き は な っ た こ と が 記 さ れ る 。 ﹁ 義 縱 爲 内 史 、 憚 未 敢 恣 治 、 及 縱 死 、 張 湯 い た こ と 、 広 平 都 尉 か ら 河 内 太 守 に 昇 進 し 、 武 帝 に 評 価 さ れ 中 尉 と 杜 れ 程 周 自 で 殺 大 ﹁ し 逆 義 、 罪 縱 杜 に 爲 周 問 南 が わ 陽 任 れ 守 用 ﹁ 、 さ 當 以 れ 族 爲 た 、 爪 こ 自 牙 と 殺 ﹂ が 、 南 記 而 陽 さ 杜 太 れ 周 守 る 任 の 。 用 ﹂ 義 族 縦 滅 の の 手 刑 先 に と 処 な せ っ ら て な っ た こ と が 記 さ れ る 。 最 後 右 扶 風 と な る も 、 部 下 を 追 い 詰 め る 過 免 中 尉 而 宣 爲 左 内 史 ﹂ 王 温 舒 が 中 尉 を 免 ぜ ら れ て 減 宣 が 左 内 史 と の 長 き に わ た っ て 御 史 お よ び 御 史 中 丞 で あ っ た 記 事 の あ と ﹁ 王 温 舒 減 宣 蔽 に 必 死 に な っ た こ と が 記 さ れ 、 減 宣 の 記 事 に 移 る 。 締 ま り の 厳 酷 化 、 ﹁ 沈 命 法 ﹂ の 制 定 、 し か し 盗 賊 は 増 加 し 官 吏 は 隠 会 情 勢 の 記 事 が 挿 入 さ れ る 。 そ の 後 の 盗 賊 の 増 加 と そ れ に 伴 う 取 り 其 治 大 抵 盡 放 温 舒 而 吏 民 益 輕 犯 法 、 盜 賊 滋 起 ⋮ ﹂ で 始 ま る 当 時 の 社 こ の あ と ﹁ 自 温 舒 等 以 惡 爲 治 、 自 郡 守 都 尉 諸 侯 二 千 石 、 欲 爲 治 者 、 は こ こ で 結 ば れ 記 述 は 楊 僕 に 移 る 。 楊 僕 が 厳 格 残 酷 さ に よ っ て 主 爵 都 尉 と な っ た こ と が 記 さ れ 、 尹 斉 伝 御 史 中 丞 に 昇 進 し 、 主 父 偃 や 淮 南 王 の 事 件 な ど 審 理 し 二 十 年 ― 王 の の は 温 一 あ 䌃 舒 年 と 都 後 に に ﹁ で ﹁ な 以 あ 後 ら 治 る 一 っ 獄 こ 歳 た 至 と 、 こ 廷 が 張 と 史 示 湯 が 、 さ 亦 記 事 れ 死 さ 張 る ﹂ れ 湯 。 先 る に 。 ﹂ 記 そ 廷 述 し 尉 さ て の れ 義 史 た 縦 と 張 の な 湯 最 り の 期 張 死 、 湯 は 処 の 義 刑 も 縦 の と の 記 で 死 事 働 職 中 に 病 死 し た 記 事 で 尹 斉 伝 も 結 ば れ る 。 ― 尹 斉 の 記 述 に 戻 る 。 温 舒 の 死 後 数 年 し て 尹 斉 も 淮 陽 都 尉 と し て 在 ば れ る 。 の ぎ を 削 っ た こ と 、 ﹁ 縱 廉 、 其 治 放 䌃 都 ﹂ 義 縦 は 廉 潔 で 、 そ の 統 治 偽 造 対 策 と し て 義 縦 が 内 史 に な る と 王 温 序 が 中 尉 と な り 、 両 者 が し 至 惡 、 其 所 爲 不 先 言 縱 、 縱 必 以 氣 淩 之 、 敗 壞 其 功 ﹂ 、 民 間 で の 貨 幣 や り 方 が 厳 し か っ た こ と 、 ﹁ 乃 以 縱 爲 右 内 史 、 王 温 舒 爲 中 尉 。 温 舒 当 時 苛 酷 な や り 方 で 九 卿 に 上 り 詰 め た 趙 禹 ・ 張 湯 と 比 べ て も 義 縦 の 張 湯 以 深 刻 爲 九 卿 矣 、 然 其 治 尚 寛 、 輔 法 而 行 、 而 縱 以 鷹 擊 毛 摯 爲 治 ﹂ 爲 縱 牙 爪 之 吏 任 用 ﹂ 杜 周 ら を 手 先 と し て 任 用 し た こ と 、 ﹁ 是 時 趙 禹 記 さ れ る 。 そ の あ と ﹁ 南 陽 吏 民 、 重 足 一 迹 、 而 平 氏 朱 彊 、 杜 衍 杜 周 、 事 が 告 発 さ れ 、 罪 を 問 わ れ 自 殺 し た こ と が 記 さ れ 、 王 温 舒 の 伝 は 結 ま っ た こ と が 記 さ れ る 。 大 宛 討 伐 の 際 、 徴 兵 に か ら ん だ 王 温 舒 の 悪 王 温 舒 の 記 述 に 戻 り 、 中 尉 と な っ て 巧 み な や り 方 で 犯 罪 を 取 り 締 た こ と が 記 さ れ る 。 久 之 、 病 死 、 而 温 舒 復 爲 中 尉 ﹂ 病 死 し た の ち 王 温 舒 が 再 び 中 尉 と な っ 討 伐 で 将 軍 と し て 功 績 を あ げ る も 朝 鮮 出 征 の 際 に 捕 ら え ら れ 、 ﹁ 居 は 尹 斉 を 手 本 と し た こ と が 記 さ れ る 。 天 子 に 能 力 を 評 価 さ れ 、 南 越 楊 僕 御 史 と な り ﹁ 使 督 盜 賊 關 東 、 治 放 尹 齊 ﹂ 盗 賊 の 取 り 締 ま り に ︵ 六 ︶ 岐阜女子大学紀要 ︵ 七 ︶ 陽 陵 人 也 ﹂ の 形 式 で 本 伝 の 記 述 が 始 ま る よ り 前 の 趙 禹 伝 と 義 縦 伝 に 、 に 事 実 と し て 酷 吏 達 は 繋 が り を 持 つ 。 ま た 特 に 王 温 舒 は ﹁ 王 温 舒 者 、 温 舒 と 尹 斉 、 さ ら に 尹 斉 の 失 脚 と と も に 登 場 す る 楊 僕 、 と い う よ う 第 44 号 側 / さ れ る 側 の 関 係 と な っ た 義 縦 と 寧 成 、 張 湯 に 取 り 立 て ら れ た 王 (2015. 1.) れ 、 家 は 巨 万 の 富 を 蓄 え た と の 記 述 で 伝 が 結 ば れ る 。 の 統 治 は 暴 虐 残 酷 で 、 ど ち ら も 王 温 舒 ら よ り ひ ど か っ た こ と が 記 さ を 挟 ん で 二 つ の 郡 の 太 守 と な り ﹁ 其 治 暴 酷 、 皆 甚 於 王 温 舒 等 矣 ﹂ そ 巧 み だ っ た こ と が 記 さ れ る 。 自 身 は 御 史 大 夫 に 、 二 人 の 息 子 も 黄 河 善 候 伺 ﹂ そ の 仕 事 は 張 湯 を み な ら い 、 天 子 の 顔 色 を う か が う こ と が 年 で 、 そ の 仕 事 は 減 宣 を 手 本 と し た こ と 、 ま た ﹁ 其 治 大 放 張 湯 、 而 放 ﹂ 減 宣 と か わ る が わ る 任 用 さ れ 、 交 互 に 御 史 中 丞 と な る こ と 十 余 こ と が 記 さ れ る 。 ﹁ 任 用 與 減 宣 相 編 、 更 爲 中 丞 十 餘 歳 、 其 治 與 宣 相 の 史 に 推 挙 さ れ 張 湯 の も と で 働 き 、 そ の 進 言 に よ っ て 御 史 と な っ た 列 伝 は 一 つ の 構 造 体 と し て 成 り 立 っ て い る と い え よ う 。 て の 共 通 項 だ け で な く 、 複 数 の 人 物 が 接 点 を 持 つ 記 述 に よ り 、 酷 吏 る 。 こ う し た 要 因 に よ り 記 述 は 前 後 し 錯 綜 す る 。 酷 吏 の あ り 方 と し さ ら に 王 温 舒 の 最 期 を 記 し た 後 の 減 宣 伝 と 杜 周 伝 に も 名 前 が 挙 が あ と に 続 く 官 吏 が 王 温 舒 流 の や り 方 を し た こ と を 示 す の は 、 周 陽 由 伴 う 盗 賊 の 増 加 、 沈 命 法 の 制 定 に い た っ た 経 過 と そ の 影 響 を 記 す 。 へ の 言 及 を 以 て 始 ま る が 人 物 描 写 で は な く 、 統 治 の 厳 酷 化 と そ れ に 侯 二 千 石 、 欲 爲 治 者 、 其 治 大 抵 盡 放 温 舒 ⋮ ﹂ の 部 分 で あ る 。 王 温 舒 あ や 本 義 用 と 減 記 と に と も 杜 構 そ る 酷 と 縦 與 し 宣 事 し 、 の 個 周 成 趙 こ 。 吏 し の 減 て 死 が て 䌃 関 々 の す 禹 は た 手 宣 別 後 挟 の 都 わ の 伝 る か に 単 こ 先 相 個 に ま 酷 ・ り 伝 は が ら も 独 と と 編 に は れ 吏 寧 と と 同 、 尹 う で を な ﹂ 存 杜 る の 成 い し じ そ 斉 一 姿 ・ う て く れ の 存 記 り と 在 周 。 つ 減 在 す 張 記 し が 宣 で 周 観 分 ﹁ を 間 挿 す 。 湯 さ た 登 伝 あ 陽 点 断 そ 挟 は 入 る 趙 の れ わ 場 は っ 由 か さ れ ん 複 さ も 禹 も る け し 王 た の ら れ ぞ で 数 れ の か と こ で た 温 。 三 す 成 れ 前 の る で ら で と は こ 舒 し 人 る 立 一 の 人 の は 尹 働 か な と が か の と し 段 䌃 物 が な 斉 き ら く を 中 し 伝 そ て で 都 の ﹁ く ま 、 も 、 記 尉 減 か の い あ ・ 記 自 な で 官 明 そ す を 宣 ら 事 る る 寧 述 温 っ の 吏 ら の 。 免 ・ 読 情 よ ﹂ 成 が 舒 た 酷 と か こ し 職 杜 み は う と ・ 重 等 こ 吏 し で と か さ 周 取 異 に す 周 な 以 と の て あ は し れ の れ な み る 陽 り 惡 を 輩 は る 杜 減 て 伝 る る え 。 由 合 爲 表 出 減 。 周 宣 左 に の 。 る 確 と っ 治 し を 宣 そ 伝 と 内 は は 前 が か 後 て 、 て 経 や の の 杜 史 他 特 述 、 に ろ ま 郡 い て 張 杜 方 周 と の 異 し 他 、 の と 守 る 、 湯 周 に は な 酷 な た の ど 減 ま 都 の も を 伝 ﹁ 官 り 吏 存 よ 酷 ち 宣 り 尉 で は 手 は 任 吏 、 の 在 う 吏 ら ・ を 諸 宣 各 序 爲 一 截 、 而 楊 僕 附 見 于 王 温 舒 尹 齊 傳 内 、 不 在 十 人 之 數 。 一 傳 、 留 寧 成 未 了 合 序 爲 一 截 、 王 温 舒 尹 齊 合 序 爲 一 截 、 杜 周 減 十 人 、 䌃 都 寧 成 周 陽 由 各 序 爲 一 截 、 趙 禹 張 湯 合 序 爲 一 截 、 義 縱 構 成 個 し 々 て の い 伝 る が 構 完 造 全 を に 、 分 呉 段 見 さ 思 れ は ず 次 、 の 複 よ 数 う の に 人 指 物 摘 が す 繋 る⑮ が 。 り 合 っ て 部 分 を 周 陽 由 と そ れ 以 降 の 区 切 り を と し て 機 能 し て い る こ と か ら 考 え る 記 事 と 類 似 す る 。 こ の 記 事 が 社 会 情 勢 の 新 た な 局 面 を 示 す と と も に 成 由 等 矣 ﹂ と 寧 成 や 周 陽 由 に 類 す る 官 吏 が 登 場 す る こ と を 示 唆 し た 伝 の 後 に ﹁ 自 寧 成 周 陽 由 之 後 、 事 益 多 、 民 巧 法 、 大 抵 吏 之 治 、 類 多 ― 実 際 の 官 吏 と し て の 役 割 上 で 接 点 を 持 っ た 趙 禹 と 張 湯 、 弾 圧 す る ― 働 い た こ と 、 ﹁ 擧 爲 廷 尉 史 、 事 張 湯 、 湯 數 言 其 無 害 、 至 御 史 ﹂ 廷 尉 其 次 序 則 用 年 代 之 前 後 爲 次 。 『史記』酷吏列伝を読む (河井昭乃) 一 つ は 酷 吏 の 死 亡 に 時 間 表 現 を 伴 う 記 事 で あ る 。 趙 禹 伝 ・ 義 縦 さ ら に 楊 可 の 告 緡 令 に 反 対 す る 行 動 を と っ た こ と が 原 因 で 最 終 的 に の 点 に つ い て 考 察 す る 。 最 期 に 至 る 記 述 、 巡 幸 時 の 道 路 不 整 備 に よ っ て 武 帝 の 不 興 を 買 い 、 的 に 成 り 立 た せ る 機 能 を 担 っ て い る と 考 え ら れ る の で あ る 。 以 下 そ し か し 、 義 縦 伝 の 死 亡 記 事 は こ の 二 例 と 状 況 を 異 に す る 。 義 縦 の に い う と 、 そ の い く つ か の 記 事 が 酷 吏 達 の 伝 記 を 相 互 参 照 さ せ 有 機 と い う 観 点 か ら み た と き 、 別 の タ イ プ の 記 事 も 存 在 す る 。 結 論 を 先 て 記 事 が 重 な る こ と は 必 然 的 な も の で あ ろ う 。 し か し 、 そ の 必 然 性 き た 人 間 と し て 、 現 実 的 に 接 点 を 持 ち 事 跡 が 重 な り あ い 、 そ れ に よ っ よ う に 記 さ れ る か を 確 認 し て き た 。 だ が 考 え て み れ ば 、 同 時 代 を 生 こ こ ま で 、 個 々 の 酷 吏 の 伝 内 部 に お い て 他 の 酷 吏 と の 関 係 が ど の 他 の 要 素 の 対 比 を 含 み な が ら 時 間 軸 に 沿 っ た 記 述 が な さ れ る 。 い う 歴 史 的 な 時 間 の 流 れ と 記 述 の 流 れ に 齟 齬 は な い 。 以 上 二 例 で は と 考 え ら れ よ う 。 た だ 、 こ こ で も 王 温 舒 の 死 、 数 年 後 の 尹 斉 の 死 と 対 照 的 に 記 さ れ 、 そ れ は 官 吏 と し て の 生 き 方 の 違 い を 反 映 す る も の 後 の 財 産 が 記 さ れ て お り 、 両 者 は ﹁ 家 直 ﹂ 家 の 財 産 と い う 点 か ら も 記 述 の 直 前 に は 王 温 舒 伝 の 結 び と し て ﹁ 温 舒 死 、 家 直 累 千 金 ﹂ と 死 四 張 湯 の 場 合 と 同 様 、 二 人 の 末 路 を 対 比 し て 示 す 。 そ れ と 同 時 に こ の 齊 亦 以 淮 陽 都 尉 病 死 、 家 直 不 滿 五 十 金 ﹂ と し て 記 述 を 結 び 、 趙 禹 と る の が 、 人 物 の 伝 に 挟 ま れ た 二 つ の 社 会 背 景 の 記 述 な の で あ る 。 な い 減 宣 ・ 杜 周 。 そ し て こ の 区 分 を 表 示 す る も の と し て 機 能 し て い 斉 、 伝 の 構 造 と し て 独 立 し つ つ も 酷 吏 の 存 在 と し て は 他 と 切 り 離 せ 構 造 上 も 酷 吏 の 存 在 と し て も 他 と の 関 係 の 上 に 成 り 立 つ 趙 禹 か ら 尹 造 と し て も 酷 吏 の 存 在 と し て も 独 立 し た 䌃 都 ・ 寧 成 ・ 周 陽 由 、 伝 の 五 族 処 刑 と い う 悲 劇 を 記 し た の ち 、 再 度 尹 斉 に つ い て ﹁ 後 數 歳 、 尹 の 末 尾 、 悪 事 が 告 発 さ れ 王 温 舒 は 自 殺 、 親 族 も 不 正 に 絡 ん で 同 時 に ↓ 尹 斉 ↓ 楊 僕 ↓ 王 温 舒 ↓ 尹 斉 と 移 っ て い く 。 王 温 舒 の 二 度 目 の 記 述 挟 ん で 一 段 と し て 成 り 立 つ 。 こ の 一 段 の 内 部 で 記 述 の 中 心 は 王 温 舒 尹 斉 伝 は 王 温 舒 伝 と 互 い 違 い に 記 述 さ れ 、 な お か つ 楊 僕 伝 を 間 に ― ― が 、 他 者 と の 関 係 性 に 着 目 す る と 三 つ の 段 階 に 分 類 で き る 。 伝 の 構 内 容 と し て は 共 通 す る 部 分 を 持 ち そ れ に よ っ て 人 物 は 類 型 化 さ れ る て い る と 判 断 で き よ う 。 前 節 で 確 認 し た よ う に 、 各 酷 吏 の 伝 は 記 述 挟 ま れ た 二 つ の 部 分 が 前 後 の 各 酷 吏 の 伝 の 性 質 を 区 分 す る 働 き を し る 原 理 を 持 つ に 至 る の で あ る 。 こ の よ う に 考 え る と 、 人 物 の 記 述 に の 酷 吏 と 切 り 離 す こ と が で き な い 、 䌃 都 ・ 寧 成 ・ 周 陽 由 ら と は 異 な 杜 周 で あ り 、 上 述 し た よ う に 伝 と し て 独 立 し な が ら 存 在 と し て は 他 い う 歴 史 的 な 時 間 の 流 れ と 記 述 の 流 れ は 一 致 す る 。 比 を 示 す も の で あ る が 、 こ こ で は 張 湯 の 死 、 十 数 年 後 の 趙 禹 の 死 と 于 家 ﹂ と 結 ぶ 。 劇 的 な 最 期 を 迎 え た 張 湯 と 天 寿 を 全 う し た 趙 禹 の 対 り 、 趙 禹 の 晩 年 の 様 子 を 記 す 。 そ し て 最 期 を ﹁ 後 湯 十 餘 年 、 以 壽 卒 る か の よ う に 自 死 を 選 ん だ こ と を 記 し た の ち 、 再 び 趙 禹 に 記 述 が 戻 さ ま ざ ま な 要 因 が 絡 み 合 っ た 転 落 へ の 道 筋 、 最 後 に 趙 禹 に 説 得 さ れ 趙 禹 伝 は 張 湯 伝 を 内 包 す る 形 で 成 り 立 つ 。 張 湯 伝 の 末 尾 、 張 湯 の こ と が で き る の で は な い か 。 実 際 、 こ の 記 事 の あ と に 続 く の が 減 宣 ・ と 、 ﹁ 自 温 舒 等 以 惡 爲 治 ⋮ ﹂ で 始 ま る 記 事 に も 一 つ の 区 切 り を 見 る ま ず 趙 禹 伝 と 尹 斉 伝 に つ い て 確 認 す る 。 伝 ・ 尹 斉 伝 に み え る が 、 そ の 中 で 重 要 な の が 義 縦 伝 の 記 事 で あ る 。 ︵ 八 ︶ 岐阜女子大学紀要 ︵ 九 ︶ れ て い く 記 述 を 立 体 的 に 構 成 す る 機 能 を 果 た し て い る と い え る だ ろ て い る の が ﹁ 後 一 歳 、 張 湯 亦 死 ﹂ の 一 文 で あ り 、 そ れ が 線 条 的 に 流 張 湯 と 時 間 を 共 有 し て 生 き て い た の で あ る 。 こ の 再 構 成 を 可 能 に し の 登 場 が あ っ た の で あ る 。 義 縦 と 杜 周 ・ 王 温 舒 は 関 係 を 持 ち な が ら 、 を 再 構 成 す る と 、 張 湯 の 存 命 中 に す で に 義 縦 の 活 躍 、 杜 周 ・ 王 温 舒 て い る 。 こ の こ と を 踏 ま え て 時 間 軸 に よ っ て 人 物 の 時 間 的 位 置 関 係 縦 の 生 存 中 で あ り 、 こ こ に も 記 述 の 流 れ と 時 間 の 流 れ に 齟 齬 が 生 じ ま り 、 伝 と し て の 記 述 は 後 に な る 杜 周 ・ 王 温 舒 の 登 場 は 実 際 に は 義 内 史 と な る と 中 尉 王 温 舒 と し の ぎ を 削 り 合 っ た こ と が 記 さ れ る 。 つ 手 先 の 臣 と し て 杜 周 を 用 い 、 ﹁ 乃 以 縱 爲 右 内 史 、 王 温 舒 爲 中 尉 ﹂ 右 南 陽 に い た と き に は ﹁ 而 平 氏 朱 彊 、 杜 衍 杜 周 、 爲 縱 牙 爪 之 吏 任 用 ﹂ て い た こ と と 重 な る 。 杜 周 は ま ず 直 前 に ﹁ 任 用 與 減 宣 相 編 ﹂ 減 宣 と 張 湯 。 張 湯 數 稱 以 爲 廉 武 、 使 督 盗 賊 ﹂ 御 史 と し て 同 様 の 仕 事 を 行 っ 締 ま っ た こ と が 示 さ れ る が 、 そ れ は 尹 斉 の ﹁ 以 刀 筆 稍 遷 爲 御 史 、 事 述 を 思 い 起 こ す こ と に な る 。 楊 僕 は 御 史 と な っ て 関 東 で 盗 賊 を 取 り に 突 き 当 た っ た と こ ろ で ﹁ 廉 ﹂ を キ ー ワ ー ド に 䌃 都 伝 ま で 遡 っ て 記 て の 廉 潔 さ に あ ろ う 。 寧 成 伝 あ る い は 義 縦 伝 を 読 ん で こ の フ レ ー ズ の 指 摘 へ 繋 が っ て い く と す る な ら ば 、 対 比 の 最 大 の 焦 点 は 官 吏 と し が さ ら に 論 賛 の ﹁ 此 十 人 中 、 其 廉 者 足 以 爲 儀 表 、 其 汚 者 足 以 爲 戒 ﹂ の あ り 方 の 中 で も 特 に そ の 廉 潔 さ に 注 目 し て い る こ と に な る 。 そ れ 無 所 受 、 請 寄 無 所 聽 ﹂ と あ る の を 承 け て い る と す る と 、 酷 吏 と し て の 文 字 を 用 い る 。 䌃 都 伝 に ﹁ 都 爲 人 勇 有 氣 力 、 公 廉 不 發 私 書 。 問 遺 義 縦 伝 の 内 部 を み る と 、 義 縦 よ り 後 に 登 場 す る 酷 吏 の 名 が み え る 。 こ の う ち 寧 成 と 義 縦 は 䌃 都 に な ぞ ら え る が 、 そ こ に 合 わ せ て ﹁ 廉 ﹂ ― 第 44 号 (2015. 1.) は 義 縦 ↓ 張 湯 な の で あ り 、 記 述 の 順 序 と 矛 盾 す る の で あ る 。 さ ら に は 義 縦 の 方 が 一 年 早 か っ た こ と が 分 か る 。 実 際 に 死 亡 し た 順 と し て し か し ﹁ 縱 棄 市 。 後 一 歳 、 張 湯 亦 死 ﹂ の 記 録 に よ っ て 実 際 に は 死 亡 と な る 。 記 述 上 は 張 湯 の 悲 劇 的 な 最 期 を 記 し た 後 に 義 縦 が 登 場 す る 。 し て お り 、 そ れ に よ っ て 記 述 の 順 と し て は 趙 禹 ↓ 張 湯 ↓ 趙 禹 ↓ 義 縦 杜 周 伝 ﹁ 其 治 與 宣 相 放 ﹂ ﹁ 其 治 大 放 張 湯 、 而 善 候 伺 ﹂ 楊 僕 伝 ﹁ 遷 爲 御 史 、 使 督 盜 賊 關 東 、 治 放 尹 齊 ﹂ 義 縦 伝 ﹁ 縱 廉 、 其 治 放 䌃 都 ﹂ 寧 成 伝 ﹁ 其 治 效 䌃 都 、 其 廉 弗 如 ﹂ 繋 ぐ 表 現 で あ る 。 ― 義 縦 伝 が 置 か れ る の は 趙 禹 伝 の 後 で あ る 。 趙 禹 伝 は 張 湯 伝 を 内 包 と り い で え あ る⑯ る 。 が 、 そ れ に 続 け て 張 湯 の 死 を 記 録 す る の は 、 例 外 的 な も の 義 縦 伝 に つ い て い え ば 、 義 縦 の 最 期 を 記 す と こ ろ ま で は パ タ ー ン 通 こ で い う ﹁ 最 期 ﹂ は あ く ま で 記 述 の 中 心 と な る 人 物 の も の で あ る 。 け 体 行 一 る 的 為 も 方 。 行 行 う 動 動 一 は で の つ ﹁ は 関 、 放 な 連 酷 ・ く を 吏 效 比 記 と ︵ 較 す 酷 ま を の 吏 ね 示 と の る す は 関 、 記 別 係 手 事 の を 本 に 種 示 と つ 類 す す い の 記 る て 記 事 ︶ ﹂ 、 事 の を そ に う 用 れ つ ち い を い 、 対 さ て そ 比 ら 考 れ し に え ぞ て 二 た れ 酷 つ い の 吏 に 。 事 分 具 跡 を 、 す る 記 述 要 素 の 一 つ で あ る こ と は 先 に 確 認 し た と お り で あ る が 、 そ 一 年 後 の 張 湯 の 死 が 記 さ れ る 。 酷 吏 の 最 期 の 記 述 は 、 十 一 人 に 共 通 五 処 刑 さ れ る の だ が 、 そ の あ と ﹁ 縱 棄 市 。 後 一 歳 、 張 湯 亦 死 ﹂ さ ら に う⑰ 。 『史記』酷吏列伝を読む (河井昭乃) を 示 す 表 現 で あ る 。 の 軸 と し て ﹁ 趙 禹 ∧ 王 温 舒 ∧ 杜 周 の 息 子 達 ﹂ と い う 不 等 号 で 示 さ れ も う 一 方 は ﹁ 於 ︵ ∼ よ り も ︶ ﹂ を 用 い 比 較 に よ っ て 程 度 の 高 ま り 後 の 部 分 を 担 う 人 物 で あ る 。 つ ま り 、 こ こ に 武 帝 期 は 王 温 舒 を 比 較 を も つ と い え よ う 。 人 で は な く そ の 息 子 達 で あ り 、 酷 吏 列 伝 が 記 述 対 象 と す る 時 間 の 最 あ り 方 を 重 ね 、 類 推 に 導 き 、 そ の 類 型 を も つ 人 物 を 重 ね て い く 作 用 以 上 の こ と か ら 、 ﹁ 放 ﹂ を 用 い て 対 比 す る 表 現 は 、 酷 吏 と し て の の 最 後 に 登 場 す る 人 物 で あ る 。 さ ら に 最 期 に 比 較 さ れ る の は 杜 周 本 も 趙 禹 は 武 帝 期 の 酷 吏 と し て 最 初 に 登 場 す る 人 物 で あ り 、 杜 周 は そ れ ほ ど の 存 在 で あ っ た か 類 推 さ せ る こ と が 可 能 に な る の で あ る 。 る こ と で 、 こ の 後 の 地 方 官 の あ り 方 を 直 接 表 記 し な く て も そ れ が ど を 恐 怖 に 陥 れ た こ と が 記 さ れ て い た 。 ﹁ あ の ﹂ 王 温 舒 に 重 ね 合 わ せ ら え る 。 王 温 舒 伝 に は 広 平 都 尉 、 河 内 太 守 と し て 辣 腕 を 振 る い 人 々 大 抵 盡 放 温 舒 ﹂ と あ り 、 以 降 の 地 方 官 の 統 治 の 様 子 を 王 温 舒 に な ぞ の 文 に ﹁ 自 温 舒 等 以 惡 爲 治 、 郡 守 都 尉 諸 侯 二 千 石 、 欲 爲 治 者 、 其 治 ま た 、 特 定 の 酷 吏 に 対 し て い う も の で は な い が 、 尹 斉 伝 の 後 の 地 に 比 べ 、 杜 周 の 息 子 達 を 王 温 所 に 比 べ る と い う 図 式 で あ る 。 そ も そ 温 舒 ら よ り も 激 し か っ た と い う 。 こ こ で 重 要 な の が 、 王 温 舒 を 趙 禹 の 息 子 も 太 守 と な り 、 そ の 息 子 た ち に つ い て 横 暴 苛 酷 で ﹁ あ の ﹂ 王 一 方 杜 周 伝 の 記 事 は 伝 の 終 わ り 近 く に 、 杜 周 は 御 史 大 夫 と な り 二 人 度 を 更 に 深 め て 登 場 す る こ と を 、 王 温 舒 の 登 場 に 先 だ っ て 説 明 す る 。 年 は 穏 や か に な っ た 裏 で 、 の ち に 台 頭 す る 王 温 舒 ら が そ の 苛 酷 の 程 し て い っ た こ と を 記 す 箇 所 に み え 、 か つ て は 酷 烈 で あ っ た 趙 禹 も 晩 ― 宣 ・ 張 湯 が 想 起 さ れ る 場 合 も 事 情 は 同 様 で あ ろ う 。 禹 伝 の 記 事 は 趙 禹 の 酷 吏 と し て の 仕 事 の や り 方 が 時 間 を 追 っ て 変 化 義 縦 に 重 ね 合 わ せ る こ と に な る 。 そ れ は 楊 僕 ・ 杜 周 か ら 尹 斉 ・ 減 趙 禹 の 記 事 と 杜 周 の 記 事 に は い ず れ も 王 温 舒 の 名 前 が み え る 。 趙 ― に ま で 響 か せ た 人 物 で あ る 。 そ う し た 数 々 の 行 動 を も 含 め て 寧 成 ・ な 存 在 と し て 高 官 外 戚 を も 憚 る こ と な く 辣 腕 を 振 る い 、 威 名 を 匈 奴 か 時 ら に 想 そ 起 れ す 以 る 外 䌃 の 都 行 は 動 、 も 酷 想 吏 起 と す し る て こ 最 と 初 に に な 登 る 場 。 し⑱ 特 、 に 当 寧 時 成 に ・ あ 義 っ 縦 て の 特 記 異 述 ま っ て 深 化 し て い る こ と を 表 し て い る 。 の で あ り 、 同 様 の 立 場 に あ っ た 酷 吏 と し て の 厳 酷 さ が よ り 一 層 強 様 子 を 承 け 、 尹 斉 の 仕 事 の 評 判 が ﹁ あ の ﹂ 寧 成 以 上 で あ っ た と す る 体 的 な 対 比 の ポ イ ン ト が あ る が 、 そ れ を 根 拠 に 記 述 を 遡 る こ と で 同 裁 決 を し た 点 に 対 比 の 焦 点 が あ る 。 い ず れ の 場 合 も 、 そ れ ぞ れ に 具 記 述 に そ っ く り そ の ま ま 重 な る 。 天 子 の 意 向 を 観 察 し そ れ に 沿 っ た 尹 見 斉 乳 は 虎 関 、 内 無 都 値 尉 寧 に 成 任 之 命 怒 さ ﹂ れ⑲ と 、 言 お わ そ れ ら る く ほ 寧 ど 成 恐 が れ 関 ら 都 れ 尉 た で こ あ と っ が た 記 と さ き れ の る 。 免 職 さ れ た の ち 関 都 尉 に 任 命 さ れ 、 当 時 関 所 を 往 来 す る 者 の 間 で ﹁ 寧 尹 斉 の 記 事 は 寧 成 と の 比 較 で あ る 。 寧 成 は 二 回 目 の 記 述 で 、 一 度 上 意 所 欲 罪 、 予 監 史 深 者 、 卽 上 意 所 欲 釋 、 與 監 史 輕 平 者 ﹂ と い う 於 王 温 舒 等 矣 ﹂ 釋 者 、 久 繫 待 問 、 而 微 見 其 冤 狀 ﹂ と 続 き 、 そ れ は 張 湯 の ﹁ 所 治 、 卽 合 う こ と 、 張 湯 に つ い て は あ と に ﹁ 上 所 欲 擠 者 、 因 而 陷 之 、 上 所 欲 と も に 任 用 さ れ た と あ る の を 承 け て 減 宣 と は そ の 仕 事 ぶ り が 重 な り 杜 周 伝 ︵ に 記 載 さ れ る 二 人 の 息 子 に つ い て ︶ ﹁ 尹 斉 伝 ﹁ 遷 爲 關 内 都 尉 、 聲 甚 於 寧 成 ﹂ 趙 禹 伝 ﹁ 王 温 舒 等 後 起 、 治 酷 於 禹 ﹂ 其 治 暴 酷 、 皆 甚 ︵ 一 〇 ︶ 岐阜女子大学紀要 能 し て い る の で あ る 。 ① ︵ 一 一 ︶ 馬 遷 の 史 観 の 一 側 面 ﹂ ︵ ﹃ 古 代 学 ﹄ 九 ︵ 四 ︶ 、 一 九 六 一 ︶ 俣 野 太 郎 ﹁ 史 の ち ﹃ 秦 漢 政 治 制 度 の 研 究 ﹄ 一 九 六 二 ︶ 伊 藤 徳 男 ﹁ 循 吏 と 酷 吏 ︱ 司 鎌 田 重 雄 ﹁ 漢 代 の 循 吏 と 酷 吏 ﹂ ︵ ﹃ 史 学 雑 誌 ﹄ 五 九 ︵ 四 ︶ 、 一 九 五 〇 、 の で は な く 、 後 に 行 く ほ ど 濃 く な っ て い く 変 化 を 示 す 記 号 と し て 機 り か ﹁ 於 ﹂ に よ る 比 較 表 現 は 文 字 の ﹁ イ ン ク の 色 ﹂ の 濃 さ は 一 律 な さ れ た 文 字 を 幾 枚 重 ね ﹂ る こ と 指 示 す る マ ー カ ー と し て 、 そ れ ば か ら れ て い る 。 ﹁ 放 ﹂ に よ る 対 比 表 現 は 田 中 氏 の い う ﹁ 透 明 紙 に 印 刷 う 。 さ ら に 酷 吏 列 伝 で は 反 復 さ れ る 措 辞 に よ っ て も そ の 効 果 が 高 め 立 し て い る の で あ り 、 こ れ も 一 つ の 反 復 と み な す こ と が で き る だ ろ 酷 吏 列 伝 も 構 成 の う え で 共 通 す る 記 述 要 素 を 積 み 重 ね る こ と で 成 ど 。 そ う し た 問 題 は 今 後 の 課 題 と し た い 。 ず 他 者 の 伝 の 中 で 言 及 さ れ る 対 象 と し て 特 に 多 い 王 温 舒 に つ い て な だ 問 題 が 残 さ れ て い る 。 複 雑 な 構 造 を 持 つ 張 湯 伝 や 、 本 伝 の み な ら 形 式 の 上 か ら の 分 析 で あ る が 、 個 々 の 伝 の 内 部 の 記 述 に つ い て は ま が 相 互 に 関 連 し つ つ 有 機 的 に 成 り 立 つ 所 以 を 明 ら か に し た 。 本 稿 は と 伝 を 繋 ぐ 手 段 ・ 酷 吏 と 酷 吏 の 関 係 を 示 す 記 事 に よ っ て 十 一 人 の 伝 第 44 号 (2015. 1.) 史 記 述 に お け る 表 現 の 反 復 に 関 し て 、 樊 酈 滕 灌 列 伝 な ど 高 祖 の 武 将 の 程 度 が 深 化 し て い く こ と を 確 認 し た 。 田 中 謙 二 氏 は ﹃ 史 記 ﹄ の 歴 も の で あ り 、 ﹁ 放 ﹂ に よ っ て 類 型 人 物 を 積 み 重 ね 、 ﹁ 於 ﹂ に よ っ て そ 以 上 、 二 つ の 表 現 は 酷 吏 の あ り 方 を 相 互 参 照 さ せ 繋 が り を つ け る 作 酷 吏 列 傳 第 六 十 二 ﹂ と い う よ う に 、 社 会 変 化 に 伴 う 混 乱 や 犯 罪 に 序 に ﹁ 民 倍 本 多 巧 、 姦 軌 弄 法 、 善 人 不 能 化 。 唯 一 切 嚴 削 、 爲 能 齊 之 。 左 と し て 秦 か ら 漢 初 の 変 化 を 述 べ る 。 し か し 現 状 と し て は 太 史 公 自 法 令 は 統 治 の 手 段 に す ぎ ず 善 悪 を 正 す 根 本 で は な い と い い 、 そ の 証 酷 吏 列 伝 に は 序 が あ り 、 そ こ で は 孔 子 老 子 の 言 葉 を 引 き な が ら 、 る こ と が で き る 。 て わ れ わ れ は 、 当 該 人 物 の 特 性 を ば 、 容 易 に か つ 鮮 明 に 把 握 す 化 さ れ た も の が わ れ わ れ の 脳 裡 に 強 烈 に 焼 き 付 け ら れ る 。 か く 純 化 さ れ て 、 代 わ り に そ の イ ン ク の 色 は い や 増 す よ う に 、 単 一 れ た 文 字 を 幾 枚 重 ね て も や は り 一 字 で あ る よ う に 、 た ち ま ち 単 れ ら の 戦 功 の 事 項 が い か に 多 く て も 、 た と え ば 透 明 紙 に 印 刷 さ だ が 、 ふ し ぎ な こ と に 、 か よ う な 叙 述 形 式 で 提 供 さ れ る と 、 か と 達 を の 以 列 下 伝 の を よ 取 う り に 上 い げ う⑳ 、 。 彼 ら の 戦 功 の 記 述 が 同 一 表 現 で 反 復 さ れ る こ 今 回 そ の 内 部 を 特 に 構 成 と 措 辞 の 面 か ら 考 察 し 、 類 型 化 ・ 個 々 の 伝 達 が 十 分 に 応 え て い た 現 実 の 上 に 酷 吏 列 伝 は 記 録 さ れ た の で あ る 。 と 評 価 す る 。 酷 吏 の 登 場 が 要 請 さ れ た 社 会 的 背 景 、 そ の 要 請 に 酷 吏 て い た 彼 ら は 、 残 酷 で は あ っ た が そ の 地 位 に 相 応 し い も の で あ っ た 矣 ﹂ 術 策 を 用 い て 教 え 導 き 邪 悪 を 押 し と ど め 、 文 武 の 才 を 兼 ね 備 え 教 導 、 禁 姦 止 邪 、 一 切 亦 皆 彬 彬 、 質 有 其 文 武 矣 。 雖 慘 酷 、 斯 稱 其 位 ば 治 め ら れ な か っ た の で あ る 。 彼 ら の 手 法 と 結 果 を 論 賛 で は ﹁ 方 略 は ﹁ 一 切 嚴 削 ﹂ と い う 酷 吏 達 が 取 っ て き た 厳 酷 な 手 法 に よ ら な け れ ― ― の 苛 酷 さ が 増 幅 し て い る こ と を 示 し て い る の で あ る 。 る 図 式 が 成 り 立 っ て い る の で あ り 、 武 帝 期 を 通 じ て 酷 吏 に よ る 統 治 お わ り に 『史記』酷吏列伝を読む (河井昭乃) ⑦ と あ る 。 杜 周 の 栄 達 の 様 子 を 表 す と と も に 、 張 湯 ︵ 湯 死 、 家 産 直 不 有 一 馬 、 且 不 全 。 及 身 久 任 事 至 三 公 列 、 子 孫 尊 官 、 家 䣳 累 數 巨 萬 矣 ﹂ 起 因 す る と 考 え ら れ る 。 し か し 杜 周 伝 の 末 に は ﹁ 杜 周 初 徴 爲 廷 史 、 が 記 述 対 象 と す る 時 間 の 範 囲 に お い て 、 杜 周 が 存 命 で あ っ た こ と に た だ し 、 最 後 に 登 場 す る 杜 周 伝 の み は そ の 最 期 が 記 さ れ な い 。 史 記 呉 見 思 ﹃ 史 記 論 文 ﹄ 酷 吏 列 伝 。 な お 呉 見 思 が 十 人 の 数 に こ だ わ る の ﹃ 補 標 史 記 評 林 ﹄ 巻 百 二 十 二 酷 吏 列 伝 に 引 く 視 点 よ り す る ︱ ﹂ 前 掲 俣 野 論 文 ﹁ 史 記 酷 吏 列 伝 に つ い て の 一 考 察 ︱ 基 本 的 な 構 成 上 の ⑤ 七 〇 、 二 〇 〇 五 ︶ が あ る 。 ⑬ ⑮ ⑭ は 、 論 賛 に ﹁ 自 䌃 都 杜 周 十 人 者 、 此 皆 以 酷 烈 爲 聲 ﹂ と あ る こ と に よ ⑥ 述 の 始 ま り と 意 識 し て い る こ と の 表 れ と 考 え ら れ る 。 本 史 記 な ど が ﹁ ○ ○ 者 、 ⋮ ﹂ で 改 行 す る の は 、 こ の 形 式 を 新 た な 記 百 衲 本 二 十 四 史 所 収 の 南 宋 黄 善 夫 本 史 記 は じ め 史 記 評 林 や 武 英 殿 刊 星 雲 ﹂ と の 格 闘 ︱ 文 学 と し て の ﹃ 史 記 ﹄ 研 究 序 説 ︱ ﹂ ︵ ﹃ 中 国 文 学 報 ﹄ り 返 り 、 史 記 を 文 学 と し て 読 む 行 為 を 探 る 論 考 に 谷 口 洋 ﹁ ﹁ 悲 劇 の 文 学 研 究 の 立 場 か ら 史 記 が ど の よ う な 視 点 か ら 読 ま れ て き た か を 振 ④ 一 九 、 一 九 六 六 ・ 一 九 六 八 ︶ 伊 藤 徳 男 ﹁ 史 記 雑 伝 の 研 究 ︵ 上 ︶ ﹂ ﹁ 同 ︵ 下 ︶ ﹂ ︵ ﹃ 集 刊 東 洋 学 ﹄ 一 七 ・ ③ 龜 策 、 貨 殖 、 雜 傳 也 。 以 類 相 從 、 合 在 後 。 此 説 甚 是 ﹂ 史 詮 謂 儒 林 、 循 吏 、 酷 吏 、 刺 客 、 游 俠 、 侫 倖 、 滑 稽 、 醫 方 、 日 者 、 ⑫ 侯 周 陽 、 故 因 周 陽 氏 ﹂ と そ の 姓 の 来 歴 を 記 す 。 出 身 地 を 記 す 。 周 陽 由 の み は ﹁ 周 陽 由 者 、 其 父 趙 兼 、 以 淮 南 王 舅 父 周 陽 由 以 外 の 十 人 は こ の 形 式 に よ っ て ﹁ 䌃 都 者 、 楊 人 也 ﹂ の よ う に ﹁ 雑 伝 ﹂ の 名 称 は た と え ば 梁 玉 縄 ﹃ 史 記 志 疑 ﹄ 巻 三 十 六 に 見 え る 。 ﹁ 案 、 ② と の 図 式 で 規 定 し き れ な い と の 指 摘 が あ る 。 ⑪ 吏 ﹂ 像 を 導 き 出 す こ と も 難 し い 。 す る 。 循 吏 五 人 を 貫 く 記 述 形 式 が あ る わ け で な く 、 典 型 と し て の ﹁ 循 石 奢 伝 や 李 離 伝 は そ れ ぞ れ 一 つ の 象 徴 的 な エ ピ ソ ー ド に よ っ て 成 立 産 伝 は 子 産 が 宰 相 と な っ て か ら の 社 会 の 安 定 を 年 代 記 式 に 記 す が 、 ― 子 産 、 公 儀 休 、 石 奢 、 李 離 の 五 人 を 合 伝 す る 。 そ の 中 で た と え ば 子 と え ば ﹁ 循 吏 列 伝 ﹂ の 記 述 と 比 較 し て も わ か る 。 循 吏 列 伝 は 孫 叔 敖 、 ― 列 伝 で こ の 形 式 が 必 ず し も 用 い ら れ て い る わ け で は な い こ と は 、 た に も 吏 治 の 変 容 と い う 観 点 か ら 循 吏 と 酷 吏 を ﹁ 儒 家 的 ﹂ と ﹁ 法 家 的 ﹂ 羊 春 秋 ﹄ の 対 立 と 展 開 ︱ ﹂ ︵ ﹃ 東 洋 史 研 究 ﹄ 三 六 ︵ 四 ︶ 、 一 九 七 八 ︶ を 考 察 し た 冨 谷 至 ﹁ 西 漢 後 半 期 の 政 治 と 春 秋 学 ︱ ﹃ 左 氏 春 秋 ﹄ と ﹃ 公 記 述 対 象 と す る 時 代 よ り 後 に な る が 、 前 漢 後 期 以 降 の 春 秋 学 の 展 開 的 意 義 ︱ ﹂ ︵ ﹃ 日 本 中 国 学 会 報 ﹄ 四 七 、 一 九 九 五 ︶ ま た 、 ﹃ 史 記 ﹄ が 今 鷹 眞 ﹁ 司 馬 遷 の 微 辞 ﹂ ︵ ﹃ 山 下 龍 二 教 授 退 官 記 念 中 国 学 論 集 ﹄ 一 九 ﹁ 直 法 行 治 、 不 避 貴 戚 ﹂ ︵ 義 縦 伝 ︶ ﹁ 所 斬 伐 不 避 貴 戚 ﹂ ︵ 尹 斉 伝 ︶ 一 八 ・ 一 九 二 ○ 、 一 九 六 八 ・ 一 九 六 九 ︶ 記 酷 吏 列 伝 に つ い て の 一 考 察 ︵ 上 ︶ ﹂ ﹁ 同 ︵ 下 ︶ ﹂ ︵ ﹃ 東 洋 文 化 復 刊 ﹄ ︵ ﹃ 無 窮 会 東 洋 文 化 研 究 所 紀 要 ﹄ 七 、 一 九 六 七 ︶ 俣 野 太 郎 ﹁ 続 ・ 史 記 酷 吏 列 伝 に つ い て の 一 考 察 ︱ 基 本 的 な 構 成 上 の 視 点 よ り す る ︱ ﹂ 段 と し て 機 能 し て い る と み る こ と が で き よ う 。 わ せ て 記 述 さ れ る の 対 比 す れ ば 、 杜 周 伝 の 財 産 の 記 事 が 伝 を 結 ぶ 手 病 死 、 家 直 不 滿 五 十 金 ︶ の 伝 で 最 期 を 迎 え た こ と と 死 後 の 財 産 が 合 過 五 百 金 ︶ 王 温 舒 ︵ 温 舒 死 、 家 直 累 千 金 ︶ 尹 斉 ︵ 尹 齊 亦 以 淮 陽 都 尉 ⑧ ⑩ ⑨ 九 〇 ︶ 参 照 。 湯 浅 邦 弘 ﹁ 秦 帝 国 の 吏 観 念 ︱ 雲 夢 秦 簡 ﹁ 語 書 ﹂ ﹁ 為 吏 之 道 ﹂ の 思 想 史 〇 三 ︶ 参 照 。 い て は 拙 稿 ﹁ ﹁ 道 不 拾 遺 ﹂ 考 ﹂ ︵ ﹃ 金 城 学 院 大 学 論 集 ﹄ 二 〇 三 、 二 〇 郊 、 盜 賊 不 敢 近 廣 平 、 廣 平 聲 道 不 拾 遺 ﹂ ︵ 王 温 舒 伝 ︶ こ の 表 現 に つ ﹁ 至 則 族 滅 其 豪 穰 氏 之 屬 、 河 内 道 不 拾 遺 ﹂ ︵ 義 縦 伝 ︶ ﹁ 以 其 故 齊 趙 之 ︵ 一 二 ︶ 岐阜女子大学紀要 第 44 号 ⑰ ⑱ ら さ ん と す る 太 子 丹 が 荊 軻 に 依 頼 を す る 言 葉 に ﹁ 誠 得 劫 秦 王 、 使 悉 語 ら せ る の は 刺 客 列 伝 に み え る 。 荊 軻 伝 で 、 秦 へ の 積 年 の 恨 み を 晴 浮 か び 上 が る 。 ま た 登 場 人 物 の 発 言 を 借 り て 冒 頭 の 人 物 を 理 想 形 と い く 。 そ れ に よ っ て 相 対 的 に 朱 家 は 游 俠 と し て 理 想 的 な 存 在 と し て 鄕 者 朱 家 之 羞 也 ﹂ と い い 、 い ず れ も 最 初 に 登 場 す る 朱 家 と 対 比 し て と に ﹁ 至 若 北 道 姚 氏 、 ⋮ 之 徒 、 此 盜 跖 居 民 間 者 耳 。 曷 足 道 哉 。 此 乃 之 戲 ﹂ と い い 、 最 後 に 各 地 の 任 俠 と さ れ る 人 物 の 名 前 を 列 挙 し た あ 弗 及 ﹂ と い い 、 さ ら に 劇 孟 に は ﹁ 劇 孟 行 大 類 朱 家 、 而 好 博 、 多 少 年 記 述 し 、 続 く 田 仲 に は ﹁ 楚 田 仲 以 俠 聞 、 喜 劍 。 父 事 朱 家 、 自 以 爲 行 他 に 游 俠 列 伝 に も み え る 。 最 初 に 季 布 を 苦 境 か ら 救 っ た 人 物 朱 家 を 列 伝 内 の 冒 頭 に 登 場 す る 人 物 に 後 の 人 物 を 重 ね 合 わ せ て い く 手 法 は (2015. 1.) 認 む べ く ﹂ と す る が 、 構 造 上 の 具 体 的 な 機 能 に つ い て は 触 れ な い 。 着 せ し め て 全 体 を 合 伝 的 に 構 成 せ ん と す る 用 意 の 殊 に 明 白 な 発 言 と 上 の 視 点 よ り す る ︱ ﹂ は こ の 表 現 を ﹁ す ぐ 前 に 置 か れ た 張 湯 伝 と 密 な お 前 掲 俣 野 論 文 ﹁ 史 記 酷 吏 列 伝 に つ い て の 一 考 察 ︱ 基 本 的 な 構 成 ⑯ い と こ ろ が 例 外 的 と い う 所 以 で あ る 。 た 記 述 と な っ て い る 。 義 縦 伝 に お け る 張 湯 の 死 の 記 録 は そ う で は な て の 本 領 を 発 揮 し た こ と を 導 く 機 能 を 果 た し て お り 、 時 間 軸 に 沿 っ て 中 心 人 物 の 登 用 が も た ら さ れ た こ と を 示 す 。 そ れ に 続 く 酷 吏 と し 温 舒 が 廷 尉 と な っ た こ と を 記 す も の で あ り 、 前 述 の 人 物 の 死 に よ っ ⑳ 九 五 七 、 の ち ﹃ こ と ば と 文 学 ﹄ 一 九 九 三 ︶ ︵ 一 三 ︶ ― ― 田 中 謙 二 ﹁ ﹃ 史 記 ﹄ に お け る 表 現 の 反 復 ﹂ ︵ ﹃ 東 方 学 報 京 都 ﹄ 二 七 、 一 た こ と 、 ︵ 王 温 舒 の 前 に 記 述 さ れ た ︶ 義 縦 の 死 、 張 湯 の 失 脚 後 に 王 い ず れ も ︵ 寧 成 の 前 に 記 述 さ れ た ︶ 䌃 都 の 死 後 に 寧 成 が 中 尉 と な っ 尉 ﹂ 、 王 温 舒 伝 ﹁ 及 縱 死 、 張 湯 敗 後 、 徙 爲 廷 尉 ﹂ の 二 箇 所 に 見 え る 。 た こ と で は な い 。 他 に も 寧 成 伝 ﹁ 久 之 䌃 都 死 。 ⋮ 於 是 上 召 寧 成 爲 中 記 述 の 中 心 人 物 以 外 の 人 物 が 死 ん だ こ と を 記 録 す る の は こ こ に 限 っ そ の 数 字 を 挙 げ た の だ ︶ と す る の に 従 う 。 る が 、 こ の 点 は 会 注 考 証 が ﹁ 愚 按 蓋 擧 其 大 數 ﹂ ︵ 考 え る に 、 お お よ 軍 と し て の 理 想 が 反 映 さ れ て い る と の 論 考 が あ る 。 軍 と い う 地 位 に あ る 人 物 群 の 中 で 最 初 に 登 場 す る 司 馬 穣 苴 列 伝 に 将 列 伝 ﹂ ︵ ﹃ 名 古 屋 大 学 中 国 語 学 文 学 論 集 ﹄ 五 、 一 九 九 二 ︶ に 同 じ く 将 す る 。 列 伝 の 枠 組 み を 越 え て の 分 析 と し て は 、 今 鷹 眞 ﹁ 将 軍 た ち の と あ り 、 刺 客 列 伝 冒 頭 に 登 場 す る 曹 沫 の 方 法 を 最 善 の 策 と し て 提 示 反 諸 侯 侵 地 、 若 曹 沫 之 與 齊 桓 公 、 則 大 善 矣 。 則 不 可 、 因 而 刺 殺 之 ﹂ ⑲ 確 に 重 ね 合 わ さ れ る 。 を 踏 ま え 史 記 の ﹁ 内 ﹂ 字 を 衍 字 と す る 。 そ れ に 従 え ば 両 者 は よ り 明 該 当 箇 所 は ﹁ 關 都 尉 ﹂ と 寧 成 と 同 じ に な っ て い る 。 会 注 考 証 は そ れ こ の と き の 尹 斉 の 役 職 を 史 記 は ﹁ 關 内 都 尉 ﹂ と す る が 漢 書 酷 吏 伝 の 『史記』酷吏列伝を読む (河井昭乃) ― ―
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